こんにちは。
439年後趙では石虎の死後、石氏一族の争いなど様々な混乱が起こります。
8月に、関中に封ぜられていた石苞が、鄴の皇帝・石遵に反乱を起こそうしますが、関中の豪族どもに総スカンをくらい、そいつらに誘われた東晋の司馬勳が漢中より、関中エリアへ北伐を仕掛けてきます。
鄴からの援軍もあり、司馬勳は関中攻略をあきらめ、手ぶらで帰るのもなんなので南東へ進み、荊州の宛を攻め落とし引き上げていきました。
また、後趙朝廷でも、皇帝の石遵が、権力が増してきた石閔(冉閔)を疎ましく思い誅殺しようと思いますが、石鑑にチクられてしまい、逆に殺されてしまうという混乱がおきます。
裏切った石鑑が新しく後趙の皇帝になりなりますが、とりあえずまず行おうとしたことは、石閔(冉閔)の誅殺です。
※冉閔はこのとき「石閔」と名乗っていますので、以下では石閔と表記します。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
石虎のバカ息子リスト
前回同様、争い続ける石虎の息子たちを一覧にしておきます。
①~④は、石虎以後、君主になった順です。
この回までに死去しているのがわかるやつは横線入れてます。
●石邃(初代太子、石宣と石韜を憎み殺害も考え、さらに石虎にも反抗的な態度を取り、処刑される)
●石宣(2代目太子、石韜を殺したので石虎から処刑される)
●秦公 石韜(石虎から寵愛されていたので、調子にのって石宣に殺される)
↑ここまでが、石虎死去以前に、冥府に旅立っている奴ら
↓下記のピンクが石虎死後、争いあったやつら(今後の動きも簡単に記載しています。)
③義陽王 石鑑(クーデターによって石遵から皇位を簒奪する)
●沛王 石沖(石遵に反抗して攻めてくるも石閔と李農に撃退され処刑される)
②彭城王 石遵(クーデターによって石世から皇位を簒奪する。石鑑のクーデターによって殺される)
●楽平王 石苞(石遵に反抗して攻めようとするも諸事情で攻めることができなくなり、鄴に召喚される)
●燕王 石斌(石虎死後、劉太后と張豺によってはめられ、殺される)
●梁王 石挺
●汝陰王 石琨(後趙の権力を握った冉閔に対抗する)
④新興王 石祗(石鑑が冉閔に殺されたあと襄国で即位、冉閔に対抗、後趙最後の君主)
●楽安王 石炳
①斉公 石世(石宣処刑後、3代目太子になり、石虎の跡を継ぐが、石遵のクーデターで廃位)
その他
●石瞻(冉良)(石虎の養子、冉閔の父)※もちろん上記の息子たちより年上。だいぶ前に死去
後趙朝廷での、宮廷闘争。石閔を狙う暗殺の魔の手→びくともせず
439年の11月に石鑑は石閔や李農のおかげで即位しますが、即位翌月の12月には功労者の石閔と李農を殺しにかかります。
石鑑は、愚か者が多い石虎の息子たちのなかでも頭一つ抜けて愚かでゲスな男です。
このあとの石閔との闘争を見ていきましょう。
石鑑、石閔と李農を、琨華殿で暗殺しようとする。(石閔暗殺計画パート1)
349年12月、石鑑は即位後すぐの所信表明とも言えるタイミングで、石閔暗殺計画パート1を発動します。
楽平王・石苞、中書令・李松、殿中将軍・張才に命じて、鄴城内の琨華殿で石閔と李農を攻撃します。
おそらくある程度の兵を率いて、石閔を急襲したのでしょうが、結果は、
勝てず
でした。
このくらいいれば大丈夫だろう程度の手勢では、五胡十六国最強の男・石閔を倒すことはできません。
おそらく石閔はこう言ったでしょう。
「わっはっは。わしを倒したければ千を超える兵を連れてまいれ!」
宮中は大混乱に陥り、冉閔暗殺に失敗してしまった石鑑は「これはやべえ」と、自分は何もしらないふりをし、その夜に実行犯の石苞、李松、張才を殺してしまいます。まさにトカゲの尻尾切り。かなりクズの所業です。
ともあれ、これで石閔暗殺計画パート1は、失敗に終わりました。
石祗、襄国で石閔、李農討伐の軍を起こす
石閔暗殺計画パート1が終わったあと、後趙の元の首都・襄国にいた石虎の息子の一人・石祗は石閔と李農を誅殺することを掲げ、姚弋仲、蒲洪たちと一緒に兵を起こします。
このあたりから、石氏 vs 石閔・李農の悪の枢軸(石氏から見て)、という対立軸がはっきりとしてきます。皇帝になっている石鑑ではなく、後趙政権の中枢に座った石閔・李農を倒すことが目標になってきます。
石閔はこれに対して、石琨を大都督にし、張挙と呼延盛とともに7万の兵を率いさせ襄国から来る石祗の軍を迎撃させます。
石閔暗殺計画パート2
そういうことがありながら、349年12月、鄴城内では石閔暗殺計画パート2が発動します。
石成、石啓、石暉が石閔を殺そうと動きますが、これも石閔・李農に返り討ちにされ皆殺しにされます。
宮廷闘争でも石閔は無類の強さを発揮しています。
石閔暗殺計画パート3
さて、次は龍驤将軍の孫伏都と劉銖が、羯族の兵を3千で石閔暗殺を狙います。3千というともはや軍隊です。
孫伏都たちは、鄴城内の中台にいた皇帝の石鑑の身柄を確保して石閔を攻めようとします。石鑑も多いに期待し、
「卿らは功臣である。わしのために力をつくして(石閔と李農を殺して)くれたまえ。わしも台の上から卿らの働きを観ていようぞ。卿らの働きに必ず報いよう。」
とのたまいました。
ここにおいて、孫伏都と劉銖は衆を率いて、石閔と李農に攻めかけます。
結果は、
勝てず
でした。
3千の兵で襲いかかり勝てないとかもはや冉閔無双です。
おそらくこのようなやりとりがなされたでしょう。
孫伏都の兵「ば、化け物だ・・・」
石閔「わっはっは。たかだか3千の兵でわしを倒せると思ったか。わしを倒したければ、万の兵を連れてまいれ!」
このあと、石閔も数千の兵を率いて、逆襲し、金明門から突入して来ます。
石鑑は、「これはまじでやべえ。わしが殺されてしまう」と、すぐさま石閔と李農を門内に招き入れこう言います。
「孫伏都と劉銖が反したぞ。卿らは速やかにやつらを討つのだ」
まさにクズ。ゲスの極みです。
石閔と李農は、孫伏都たちを斬り宮中を蹂躙し、宮中は屍が横たわり、血の川が流れるという悲惨な状況になります。
石閔たちは、鄴城内の胡族たちに、「あえて武器をとるものは斬る」、と伝え、これを聞いた多くの胡族たちが、ここにいると殺されてしまうと、門を破るか、城壁を超えて鄴城外に脱出していきます。
これにより、石閔暗殺計画その3も失敗に終わり、魔都・鄴はほぼほぼ石閔の支配下に落ちます。
石閔(冉閔)の魔王即位のときが近づいて来ました。しかしそのためには血の儀式が必要でした。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)
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