こんにちは。
349年に関中エリアで勃発した「梁犢の乱」は、後趙の軍を撃破しながら、東へ進んでいき、とうとう成皋関の防衛ラインも抜き、華北平原のエリアまで進出して来ました。
後趙君主・石虎はこれを憂い、姚弋仲と蒲洪の2将を反乱鎮圧に投入します。
これにより「梁犢の乱」は決着に向かいますが、後趙国はますますの混乱へと突入していきます。
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わしが羌族族長、姚弋仲である
さて、前述のように梁犢の反乱軍が、華北平原に入ってきたところで後趙君主・石虎は、息子の燕王・石斌(せきひん)を大都督・中外諸軍事に任命し総大将にし、羌族の姚弋仲と、氐族の蒲洪を率いさせ反乱討伐に向かわせようとします。
姚弋仲、鄴に到着
姚弋仲は、手勢八千を率いて後趙の首都・鄴に赴き、石虎に面会を求めます。
石虎は病が癒えてなかったので、すぐに会うことができず、姚弋仲を領軍省という役所に入れ食事を振る舞いました。
姚弋仲は、石虎とすぐ会えない状況に速攻ブチ切れて言います。
「主上は、わしを賊討伐のために招いたのだから、その方略を授けるべきであろう。わしは飯を食いに来たのではない!そして、主上はわしと会っておらん。そんな状況でどうしてわしは主上が生きているのか死んでいるのかを知ることができようか!」
これを聞いた石虎は病を押して姚弋仲と面会をします。
姚弋仲の説教
そこで姚弋仲は石虎に説教をはじめます。
「子供を死なせてしまったことを憂いておるのか?!それが理由で病になってしまったのか?子供が幼いときにしかるべき人物をその教育係としてつけなかったので、このような事態(石宣が弟の石韜を殺す事態)になってしまったのだ。
すでに事件はおこり石宣を誅殺しているのだ。どうしてまだ憂いておるのか!?
(すべてはお前の自業自得であるぞ!)
今お前は、久しく病になっており、後継者はまだ幼い。もしお前の病が癒えなければ、天下は必ず乱れるぞ。お前が先に憂うべきことはそのことであろう。そして梁犢の反乱ごときを憂いておってはならぬ!梁犢などは困窮して東に帰ろうと思い、集まって盗賊のようになり、通り道を行き過がら荒らしているに過ぎん。この先どこに行くことができようか?まあ見ておれ、この老羌がお前のために一気にケリをつけてやるわ!」
後趙の絶対的君主の石虎に向かい「汝」(お前)よばわりし、しかも「お前の息子たち(石宣と石韜)が死んでしまったのも、全部お前の責任で自業自得だ。」と、石虎に対して相当厳しい説教を行えるという姚弋仲は、相当な人物であります。
石虎も姚弋仲の人物がわかっているので、若いときから言葉が悪かろうが相当な信頼を置いていたようです。今回も姚弋仲の言を責めるということはありませんでした。
姚弋仲の出陣
姚弋仲は、出陣するときも、
「お前、この老羌が賊を破るときまでくたばるんじゃねえぞ。」
と、鎧を着、庭の中で馬に跨り、そのまま馬を操り石虎にろくに挨拶もせずにさっさと出ていってしまいました。
五胡十六国時代の老いてますます盛んな好人物ですね。
梁犢の乱の終焉
さて、姚弋仲と蒲洪が合流した石斌の反乱鎮圧軍は、滎陽において梁犢の反乱軍と激突、反乱軍を大破し、梁犢の首もあげます。そして反乱軍残党をことごとく討ち取り凱旋しました。
李農軍が大破されたりと、ここまで恐るべき戦闘力を見せていた梁犢率いる「高力」の軍でしたが、東に帰りたいという気持ちのまま関中から河南に一気に出てきたが故に、補給なんてほぼなかったのではないかと思われます。
成皋関を超えて華北平原に出たあと、滎陽、陳留の諸郡を掠奪したのは、軍内に深刻な食料不足が起こっていたのではないでしょうか。そのようなボロボロになった状態であったでしょうから、後趙のさらなる援軍に対してあっという間に壊滅してしまったのではないかと思われます。
ここに後趙国内を東西に蹂躙していった「梁犢の乱」は鎮圧されます。
後趙国内もこれで落ち着くかなと思ったら大間違いで、このあと後趙君主・石虎が没し、後趙はその後継を巡る内乱が巻き起こります。
あ、冉閔が出てこなかったけど、「梁犢の乱」の鎮圧軍に参加していますよ。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)
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