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400年に北涼から独立して、酒泉や敦煌の河西回廊でも西よりのエリアに割拠し、そこそこ安定した社会を築いていた西涼ですが、君主・李暠が417年に病死してしまいます。
西涼は李暠の息子・李歆が跡を継ぎますが、後顧の憂いが無くなった北涼の沮渠蒙遜が虎視眈々と西涼の領土を狙っていたのでした。
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沮渠蒙遜、国内の雑胡どもを討つ
さて、北涼の沮渠蒙遜は、417年に将軍を派遣して、国内にいた烏啼部と卑和部を討ちます。
烏啼部は張掖の近くの金山郡の西にいた虜で、卑和部は西海(今の青海湖か)にいた羌族だったようです。
西涼への侵攻をはじめる前に国内の不安分子を討伐したようです。
417年の北涼の西涼侵攻
国内の不安分子を取り除くと、沮渠蒙遜はさっそく西涼侵攻を開始します。
沮渠蒙遜はこの戦に際して一計を案じます。
張掖太守の沮渠廣宗を偽って西涼に降伏させ、西涼君主・李歆をおびき寄せ、のこのこ現れたところを討とうとしました。
李歆は兵を発してこれに応じようとします。
沮渠蒙遜は、3万の兵を蓼泉(建康の西120里の地)に伏せました。
李歆もそこまで馬鹿でなく、この伏兵に気づき、兵を引きます。
沮渠蒙遜は伏兵がバレてしまったので追撃をし、解支澗という地で李歆と戦い、西涼軍に敗れてしまいます。
あれ?負けるの?沮渠蒙遜!
と、思いましたが、沮渠蒙遜は、散った兵を集め、再度李歆を攻めようとしますが、沮渠成都に
「漢の高祖も彭城で項羽に敗れましたが、ついには大漢帝国を建てました。ここは、兵を返して後日にあらためて侵攻計画を錬るのがよろしいでしょう。」
と言われ、この進言を受け入れます。
しかし、北涼はこの戦いで、建康を手に入れたようでここに守備兵を入れ、沮渠蒙遜は兵をひきます。
建康は、西涼の首都・酒泉の喉元にあたる町です。ここを沮渠蒙遜が手に入れたということは、酒泉を直撃できる拠点ができたということです。
ちなみに建康は東晋の首都・建康と同じ名前ですが、これは前涼が東晋との通交関係ができたことを記念して名前がつけられたとかの説があります。
418年の北涼の西涼侵攻
沮渠蒙遜は418年9月にも西涼侵攻を行います。
西涼君主・李歆はこれを迎撃するために、兵を出そうとしますが、左長史の張體順に固く諌められ取止めます。
沮渠蒙遜は、西涼軍が出てこないとみると、西涼の秋の収穫を刈り取って退却しました。
417年~418年の華北部西部の激変
北涼が西涼を攻撃しはじめた417年~418年は華北西部で衝撃の出来事が起こります。
後秦の滅亡
417年に東晋の英雄・劉裕が北伐の兵を発し、四路から後秦に侵攻をします。劉裕は、北伐により破格の功績を上げ東晋からの簒奪を目論んでいました。
後秦は、名君・姚興が416年に死去し、姚泓が跡を継ぎましたが、一族同士の内乱が続き、また夏や西秦や後仇池などの周辺勢力が侵攻してきており、国内がガタガタになっていました。
あっさり東晋軍にやられてしまうと思いきや、ここで粘りを見せます。
これは姚泓から兵権を預けられた姚紹の活躍によります。姚紹は一族の反乱を鎮定し、夏も撃退し、攻めてくる東晋軍を潼関で防ぎます。東晋軍をして「姚紹の気は関中を蓋う」と言われるほどの活躍をします。
しかしその姚紹も陣中で病死してしまい後秦は万事休してしまい、417年7月に長安が陥落し、
後秦は滅亡してしまいます。
夏が関中を攻略
こうして後秦は滅亡し、長安を中心とした関中エリアは東晋の手に入りました。
しかし、劉裕は関中に長くいることはできず、守備軍を残し退却していきます。
これをみて喜んだのが夏の赫連勃勃です。
すぐさま軍師の王買徳に関中攻略の計を出させ、侵攻をはじめます。
王買徳の策としては、青泥、上洛という南北の拠点を固めるとともに、東の潼関も塞ぎ関中へ東晋の援軍がこれないようにし、閉じ込められた東晋の関中守備軍を攻略するというものでした。
青泥、上洛は関中から東南に南陽盆地に抜けるルート上にある拠点です。劉邦が関中へ進行するときに通った武関もこのルート上にあります。
王買徳は関中の東と南の入口を封鎖、イコール東晋からのルートを遮断するという策を献策したのですね。
この王買徳の策はあたり、418年には関中は夏の手に落ちます。
ちなみに夏の群臣は赫連勃勃に長安に遷都することを勧めますが、赫連勃勃は、
「長安が帝王の都であり要害堅固な土地であることは知っているが、俺が長安を都としたら、北魏が必ず統万城を狙ってくる。東晋の中心部は我らから遠く憂うに足りないが、北魏は我らとひとつづきの土地で隣り合っており、北魏に対することのほうが大事だ。俺が統万城を本拠地としている限り、北魏はそう簡単には攻めて来れないだろうよ。」
と、あくまで統万城を首都としておくことにこだわります。
残虐クソ野郎のくせになかなかの戦略眼を持っている野郎です。
西秦も周囲を攻撃しまくる
この間、西秦も吐谷渾などの周辺勢力に攻撃をしかけ戦果を上げています。
このように417年~418年にかけて華北西部の勢力図が大きく変わりますが、沮渠蒙遜としては、西涼への攻撃に力を入れる状況は大きく変わりません。
そして、西涼侵攻も仕上げのときを迎えつつありました。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』 (講談社現代新書、2003年7月)
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その他、五胡十六国時代・魏晋南北朝時代が概説的に読める書籍たち↓↓
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