こんにちは。
沮渠蒙遜が北涼の君主になって以来最大の敵対国であった南涼が西秦に滅ぼされてから、河西エリアの関係性は大きく変わっていきます。
西秦が南涼を滅ぼしたことにより、沮渠蒙遜の北涼と西秦が国境を接するようになり、415年から北涼と西秦が衝突を始めます。
415年から416年にかけて衝突を繰り返した両国ですが、416年に同盟を結び、お互い別の敵に向かうことができるようになります。
沮渠蒙遜は、415年に赫連勃勃の夏とも同盟を結んでいますので、東方面に当面敵がいなくなりました。
それによって反対側の西に向かって力をそそぐことができることになります。
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西涼という国
沮渠蒙遜の北涼の西にある国は、漢人の李暠が建国した西涼です。
ちなみに李暠は、漫画キングダムの主人公李信や、前漢武帝期の名将・李広の子孫であり、唐の建国者・李淵や唐代の大詩人・李白の先祖にあたると言い伝えられています。
どこまでほんとかはわかりませんが、とりあえず、先祖や子孫どちらも有名人らしいです。
北涼から独立
李暠はもともと北涼の效穀(今の瓜州)の県令でありましたが、敦煌の豪族たちに推され、敦煌太守になります。この太守就任は河西で大きな政治力を持っていた漢人豪族たちに推されたものだったので、新参者であった当時の北涼君主・段業も認めざるを得なかったようです。
そうこうしているうちに、400年に北涼の晋昌太守・唐瑶という人物が段業から離反をし、李暠を涼公に推したことから、李暠はそれにのっかり敦煌で自立します。
これが西涼に建国になります。
西涼のマニフェストは、
「漢人国家・前涼を復興して涼州全域及び秦州を支配いたします」
ということでした。
※前涼は五胡十六国前期に漢人の張軌が建国した国で、前秦の苻堅に滅ぼされるまで、涼州全域を支配していました。
このマニフェストを元に、北涼の支配下であった敦煌東方の漢族たちに勧誘をかけたところ、続々と西涼のもとに帰順してきました。
401年9月には、河西回廊の重要都市・酒泉や涼寧も西涼に帰順しました。
これにより西涼の支配領域は、酒泉以西から敦煌あたりまでになり、広さだけで言うと、北涼より大きな領域を支配することになります。
李暠の善政
西涼君主・李暠は領国内の内政にはかなりの手腕を見せたようで、
・大規模な屯田の実施し開墾や水利の整備を行こなう
・農耕や養蚕に力を入れる
・西域諸国との交易を行う
・儒学の教養を持つ人物たちを積極的に登用する
などのことを行い、西涼領域下に安定した社会を築きました。
これだけ見ると名君ぽく見えますが、こと対外政策になると日和見が多く、これが沮渠蒙遜の北涼に大きなチャンスを与えることになりました。
李暠は南涼と同盟を結び、北涼を挟み撃ちにできる状態になっていましたが、積極的に北涼を攻撃していくということはほんどありませんでした。
この李暠が日和見している間に、沮渠蒙遜は南涼から姑臧を獲得し勢力を東へ伸ばしていきます。南涼も414年に滅亡してしまい、416年に北涼と西秦が同盟を結んだため、北涼からの圧力が強くなってきました。
西涼君主・李暠の死
そして、417年2月に李暠が病死してしまいます。李暠は跡継ぎの李歆のことを宋繇という人物によろしく頼みます。
西涼の建国者で国の発展の原動力であった李暠の死は沮渠蒙遜にとって大きなアドバンテージになります。
沮渠蒙遜、西涼を取りに動きます。
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川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
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