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401年、沮渠蒙遜の鮮やかなクーデターにより、従兄で一緒に北涼を立ち上げた実力者・沮渠男成と、北涼君主の段業を一挙に倒し、北涼という国は名実ともに沮渠蒙遜のものになりました。
沮渠蒙遜は6月に臣下たちに推されて、大都督、大将軍、涼州牧、張掖公に就任し、永安と改元しました。
北涼を自分のものにした沮渠蒙遜でしたが、北涼を取り巻く環境は非常に厳しい状態でした。はっきりいってクーデター起こしたかと思ったら次の瞬間には滅亡となってもおかしくないような状態です。
この苦しい状況を沮渠蒙遜はどのように切り盛りしていったのでしょうか。
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401年頃の河西回廊、隴西の勢力状況
さて、沮渠蒙遜が北涼君主になった401年ころの周辺の状況はどのようなものだったのでしょうか?
383年の淝水の戦いで華北を統一していた前秦が木っ端微塵になったあと、河西回廊、隴西あたりに跋扈した勢力は下記になります。
後涼
河西回廊の姑臧を本拠に、前秦の西域担当将軍の呂光が建てた国。最盛期は河西回廊全体を領域としていて、このエリアでは老舗国家(ただし建国から15年しか経っていない。五胡十六国時代では15年続いた国家はベテランである。)401年頃は、常態化していた反乱に加え、呂氏一族同士の殺し合いも追加され、さらに周辺の国からも攻撃され、息も絶え絶え、風前の灯状態であった。
南涼
禿髪烏孤が後涼から独立して建国。金城(今の蘭州)あたりから、西海(今の青海胡)までの湟水流域を領土としていた。401年頃は2代目禿髪利鹿孤が率いており、勢いがありブイブイ言わせていた。姑臧(今の武威)を狙っている。
北涼
397年に沮渠蒙遜と沮渠男成が段業を祭り上げ、後涼から独立して建国。河西回廊西部を領土にしてウハウハしていたら、敦煌で李暠が自立してしまい。西部の領土を失ってしまう。沮渠蒙遜がクーデターを起こし、国を乗っ取る。
西秦
淝水の戦い後、乞伏国仁が隴西エリアを中心に建国。乞伏国仁死後、乞伏乾帰が跡を継ぐ。周りを後秦、南涼、後涼、後仇池、吐谷渾などに囲まれている非常に苦しい状態でなんとか隴西での勢力を保つが、400年に・・・
後秦
前秦との激烈な戦いに勝ち、関中を手にした、このエリアの超大国。名君・姚興の元、領土を拡大中。隴西、河西回廊にもちょっかいを出し始める。
吐谷渾
慕容鮮卑の一部が西に流れてきて青海エリアで建国。基本遊牧生活を送っている。たぶん蛮族扱いされてそう。ちょこちょこ攻撃をしかけてくる。
400年に西秦が後秦に滅ばされる
上記なような数カ国が凌ぎを削る状態でありましたが、まず、沮渠蒙遜がクーデターを起こす前の400年に「後秦最強の部曲」を率いる将軍・姚碩徳(ようせきとく)が5万の兵で西秦領内に攻め込み、西秦を滅ぼしてしまいます。君主の乞伏乾帰は殺されず後秦の一武将として、後秦の侵略戦争に参加します。
付け加えると、西秦は滅ぼされましたが消滅せず、409年に復活を遂げます。
とは言え、この時点では、隴西は後秦のものになり河西回廊のエリアと後秦の領土が接することになります。
後秦、後涼を侵攻を開始し河西回廊に影響力を及ぼしはじめる
隴西エリアを手に入れた後秦の西部戦線担当将軍の姚碩徳は、401年になると内乱起こしまくりの後涼の様子を見て、後涼領内への侵攻をはじめます。
超大国・後秦の軍が河西回廊内に入ってきました。
姚碩徳率いる後秦軍は、後涼の首都・姑臧に向かいます。
後涼の君主・呂隆も迎撃に出ますが、後秦最強の武将・姚碩徳の前では分が悪く、大破されます。
呂隆は姑臧で籠城をし、なんとかしのごうとしますが、城内で裏切りが相次ぎ、ボロボロになります。
これを聞いた、西涼、北涼、南涼の周辺の「涼」国家どもはビビりまくり、これはまずいと全員後秦に入貢をします。
そして9月に呂隆は後秦に降伏します。ただ国としてはこの時点では滅びず、君主・呂隆も姑臧への滞在を許されます。
ちなみに姚碩徳の率いる軍は、軍令を厳しく守り、少しも掠奪などを行わず、先賢を祭り、名士に礼を尽くしたということで、河西回廊周辺の人々からも喜ばれたとい言います。姚碩徳、戦闘に強いだけでなく、人物としても素晴らしかったようです。
北涼の危機
さて、上記のように河西回廊まわりの状況が変化していく中、沮渠蒙遜率いる北涼はどうだったのでしょうか?
一言で言うと、亡国のピンチに見舞われていました。
北涼の当時の領土は、姑臧がある武威郡の隣の西郡から酒泉郡あたりまでだったのですが、酒泉、涼寧の二郡が裏切り西の西涼に降伏してしまいます。
これにより、北涼の領土は大きく減り、まさにミジンコ級の大きさになります。
これに加え、東から姚碩徳の後秦軍が後涼を屈服させ、南涼も国力を強化していました。
沮渠蒙遜、ここは東側の勢力に頭を下げていきます。
後秦の姚碩徳に使者を送り、自分も軍ごと東に移動して降伏しますよ的な勢いで、姚碩徳に平身低頭します。
姚碩徳もこれを喜び、北涼からの使者を太守に任命したりしますが、使者として訪れた沮渠蒙遜の弟、沮渠挐は沮渠蒙遜に、呂隆などは未だ姑臧に健在で、姚碩徳は兵糧が亡くなれば兵を引くので、領土を捨ててまで東に来ることはない、と伝えます。
沮渠蒙遜この話を受け入れ、なんとか踏ん張ります。
さらに、南涼にも人質を送ろうとしますが、南涼の禿髪利鹿弧にもっと格が高い人質を寄越せと言われ、それに抗議したら攻められ、再度人質を送り直すなどの屈辱外交を強いられます。
このように、北涼国を手に入れたものの国内、国外まるでいいことがなく401年が過ぎていきます。
この後の展開を知っている私達からみても、
北涼このまま滅びそう
と思ってしまう危機的状況でした。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』 (講談社現代新書、2003年7月)
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