こんにちは。
前回、五胡十六国時代391年~400年の華北東部の動きを書きました。
翟魏と西燕が後燕に滅ばされ、その後燕と北魏が参合陂の戦いで激突、なんと後燕がボロ負けしてしまいます。
後燕はそのあと慕容垂みずから軍を率い、北魏に殴り込みをかけ平城の街を陥落させます。
しかし、その直後慕容垂が病没してしまい、後燕は慕容宝が跡を継ぎます。
慕容宝の力不足は明らかで、一族の反乱が起こり(昔の慕容では当然のように起こっていた)、そして北の塞外から北魏軍が大挙攻め寄せてきます。
あっというまに并州を占領され、慕容麟が自立してしまっていた中山も落とされます。後燕は領土を2つに割られた形になりました。
慕容麟は南に逃げ、慕容垂の弟・慕容徳に合流し、慕容徳は滑台でさっさと南燕を建国してしまいました。(後燕がまだ滅びたわけではないのに、勝手に「燕」を称して自立するというびっくり行動です。
上記のような、変遷が激しい華北東部でしたが、華北西部もまた変化の激しい10年になります。
以下、五胡十六国時代後期に登場するプレイヤー(国)たちです。
【関東エリア】
西燕、後燕、南燕、北燕、翟魏
【北の塞外エリア】
夏、北魏
【関中エリア】
前秦、後秦
【西の果てエリア】
西秦、後涼、南涼、北涼、西涼、後仇池、吐谷渾
【その他】
東晋、後蜀(譙蜀)
※この回でまだいない国は網掛けしています。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)
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391年~400年(華北西部編)
関中エリア
前秦&後秦の仁義なき戦いが決着
苻堅様の死後、前秦は苻登が跡を継ぎ、ゾンビ兵を率いて、後秦の姚萇と関中の覇権を争いバチバチにやりあいます。
一時は前秦が有利になりますが、要所要所を抑えた姚萇の指揮により、だんだんと後秦が有利になっていきました。
そうこうしているうちに393年12月に姚萇は病死します。
苻登は姚萇の死を聞いて攻勢をかけますが、跡継ぎの姚興は五胡十六国時代の中でも明君に数えられる優秀な人物でした、軍師の尹緯の活躍などもあって、前秦軍を「廃橋の戦い」で撃退し、394年7月に苻登は殺され、後秦による関中統一が完成しました。
前秦は苻登死後、苻崇が湟中(青海省西寧市)で跡を継ぎますが、10月に西秦によって攻撃され敗死してしまいます。
前秦は滅亡しました。
後秦姚興による勢力拡大
姚興は後秦皇帝に即位し、姚碩徳や尹緯などの有能な人物を使い勢力を拡大していきます。
396年に北魏が後燕に侵攻をはじめると、そのスキを突き、オルドスを占領します。
399年には国内の混乱が続く東晋から洛陽を奪い、漢水や淮水の北の都市も陥落させていきました。
400年に、姚興は姚碩徳を派遣し西秦を攻撃します。西秦王の乞伏乾帰は南涼に逃亡し、その後後秦の長安に逃げ戻ってきて降伏、ここに西秦を一旦滅亡させます。
西の果てエリア
西秦
上記のように、400年に一旦滅びてしまう西秦ですが、90年代は四方を各勢力に囲まれた状態でけっこうがんばります。
392年に後涼と衝突してしまい8月に枹罕(甘粛省臨夏市)を落とされます。
西秦は前秦に冊封していましたが、394年7月に苻登が死ぬとその関係を解消、前秦のあとを継いだ苻崇と結んでいた後仇池を攻撃し、隴西方面を手に入れることに成功しました。
西秦は後涼からは圧力をかけ続けられますが、後涼の分裂によりその圧力からも開放されます。
しかし、400年に上述の後秦の攻撃を受け、乞伏乾帰は南涼→後秦と逃亡を続け、後秦に服属するようになり西秦は一旦滅びます。
後仇池
390年に渭水上流の秦州に進出し隴西王を名乗るなど後仇池にしてはイケイケな状態でありましたが、お隣の西秦と戦うことになってしまい394年10月に大敗してしまいます。君主・楊定も陣没し、隴西エリアも失うことになってしまいます。
後仇池はその後、楊盛が跡を継ぎます。
後涼が分裂
後涼はかつての前涼と同じほどの版図になりますが、領域内の漢族から反発されます。
また、西秦とも戦い、392年に西秦の首都・金城を攻撃し枹罕(甘粛省臨夏市)を陥落させます。
397年1月にも西秦を攻撃し金城を一旦落とすものの逆激され敗北します。
そして、そうこうしているうちに、後涼国内で異変が起こります。
1月、後涼東南部で禿髪烏孤が自立し南涼を建国します。
さらに6月、後涼西部で沮渠蒙遜が段業を擁立して北涼を建国します。
あっというまに3分割された後涼ですが、西の果てエリアはさらに分裂します。
400年11月に北涼から李暠が敦煌で自立し西涼を建国します。
こうして、「涼」という名前を持つ国がこのときは4つ同時に存在する状態になります。
どういつもこいつも「涼」とつけすぎだろうと思いますが、このエリアで国を建てると「涼」になってしまうのでしょう。
後涼は、397年にさらに国内で反乱が起こり鎮圧はしますが、国力を落としていきます。399年に呂光が死に、呂紹が跡を継ぎますがすぐ呂纂に取って代わられます。400年に南涼、北涼と立て続けに攻撃しますが、逆に南涼に姑臧を攻撃されたりして失敗、完全に落ち目になってしまいます。
その他エリア
東晋
さて、南の東晋はというと、国内揺れ動きます。
394年に後燕に山東エリアを奪還され、政局的にも司馬道子の専権によって混乱が続きます。
さらに399年に「孫恩の乱」という宗教反乱が起こり、もうボロボロです。
この孫恩の乱の討伐に東晋政府は劉牢之率いる北府軍を向かわせます。そして、この北府軍の中に英雄・劉裕も混じっていたのです。
400年までの華北西部の状態
さて、華北東部と同じく華北西部もゲロ吐きそうになるほどの混乱が続きます。
関中は後秦が覇権をとりましたが、西の河西回廊あたりは、分裂につぐ分裂でたくさん涼国家ができました。
西秦は滅亡するも、後秦服属状態で、このあと復活を遂げることになります。
そして、後秦が北魏からさらっと獲得したオルドスの地には、後秦から派遣されたバーサーカー劉勃勃(のちの赫連勃勃)が虎視眈々と刃を磨き始めていました。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
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