こんにちは。
洛陽攻略までの前燕を率いた、まさに支柱というべき慕容恪が367年に死去します。
慕容恪は、臨終の前に遺言として、自分のあとは、呉王・慕容垂に継がせるように伝えます。
慕容垂は、慕容皝の第5子で慕容儁、慕容恪の弟になります。(慕容暐の叔父)
文武ともに優れた武将で慕容皝、慕容儁の時代と各戦線で活躍しますが、兄慕容恪ほど重要されているわけではありませんでした。
慕容暐が跡をついだときも、その補佐には、慕容恪、慕容評、慕輿根が指名されますが、慕容垂は選ばれません。
慕容恪が臨終にあたり、後事を託されようとしますが、結局は慕容評が国の実権を握り、日の目を見ません。
そういう星の下に生まれているのか、権力者側から疎まれる何かを持っているのかわかりませんが、慕容垂は前燕の権力を握ることはできませんでした。
しかしだいぶ後の時代になりますが、前燕を滅ぼし華北を統一した前秦が淝水の戦いの後に木っ端微塵になったのを機会に、慕容垂は後燕を建国しその皇帝になりますので、人生何があるかわかりませんね。
さて、慕容恪死後の前燕の各方面の動きを見ていきたいと思います。まずは南の荊州方面です。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
東晋と荊州・宛の所有をめぐり交戦する
367年に東晋の南陽都護の趙弘が前燕に下り、前燕は魯陽に駐屯していた南中郎将・趙盤を宛の街の守将にします。
宛は今の河南省南陽市です。荊州の最北部にあたり、宛がある盆地(今の南陽盆地)を北東に抜けると、許昌などがある中原に出ることができます。
ちなみに三国志の時代には宛は張繡の支配地で、曹操が賈詡の策にはまり九死に一生を得た場所です。漫画では典韋がハリネズミになって曹操を守りましたね。宛の南に劉備が拠っていた新野があり、さらに同じくらいの距離を南に進むと襄陽があります。
魯陽(今の魯山県)は南陽盆地を北東を囲む山の宛から見て向こう側に位置し、南陽盆地を北に抜けてから洛陽を南から攻めるときのルートを押さえるのに適した位置であろうと思われます。
慕容恪が洛陽を攻略したあと、この魯陽の街の守備を慕容垂にまかせたことからもその重要性がわかります。
洛陽攻略時には、前燕は許昌から汝南にいたる地域を征服していましたので、東晋が洛陽を奪回しようとするときは、宛がある南陽盆地から出撃して南から洛陽を目指すのがより容易なルートだったのでしょう。
しかしその宛を南陽都護の趙弘の降伏により、前燕の手に落ちてしまったのですから、東晋にとっては一大事です。
東晋、宛の奪回を目指し軍を起こす
367年に東晋は宛の奪回を目指し右将軍・桓豁を出撃させ、宛を陥落させます。
宛を守っていた趙盤は魯陽に退却しようとしますが、桓豁が軽騎をもって追撃し、雉城(宛の北北東あたり)で追いつき趙盤の軍を大破し、趙盤も東晋によって捕らえられてしまいました。
こうして宛を取り戻した桓豁は守兵を追いて帰還します。
このように、前燕は東晋と荊州方面で交戦しますが、西の前秦とも状況がざわつきはじめます。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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