こんにちは。
しばらく空いてしまいましたが、五胡十六国時代、慕容部が建てた国・前燕について続きを書きます。
前回までに、慕容儁の時代までを書きました。
ここからは、「四代目」にあたる慕容暐の時代を書いていきます。
はじめに言うと前燕は慕容暐の代で滅亡します。
しかも、洛陽、鄴などの重要都市を含んだ華北東部を支配した絶頂期からの一気の落ち込みです。
いかに、華北西半分に、のちに華北を統一する符堅の前秦がのしてきたといってもひどい瓦解具合です。
そんな前燕の落日を書きます。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
慕容暐までの各世代ごとの前燕の発展具合
①「初代」慕容廆
別に慕容廆が慕容部の初代ではないのですが、五胡十六国時代に入ってからの慕容部のリーダーであり、この慕容廆の代から慕容部の勢力拡大がはじまったことや、「晋書」の載記の慕容一族の部分は慕容廆からはじまっておりますので、「初代」とします。
慕容廆は、さまざまな部族が割拠していた遼東・遼西エリアで他部族と戦いながら勢力を拡大しつつ、中原の混乱から逃れてきた漢人たちを取り込み、農耕技術を発展、中原の文化を取り込み、簡単な官僚機構の整備など、定住化、国家建設の第一歩をおこなっていきます。
②「二代目」慕容皝
慕容廆が死んだあと、息子の慕容皝が跡をつぎますが、即位後すぐに弟・慕容仁が反乱を起こします。慕容仁は、迎合した慕容一族や漢人官僚と一緒に遼東エリアを制圧します。さらに段部、宇文部などの勢力も呼応し、慕容皝包囲網を作ります。このような危機的状況をなんとかしのぎ慕容仁の乱を平定します。
そのあと、慕容皝は燕王に即位し、「前燕」という国がスタートします。
慕容皝は、遼東・遼西エリアの他勢力を次々と倒していき、中原から進出して来た後趙の攻撃もしりぞけ、遼東・遼西支配を確立します。幽州あたりへの進行も行い、中原進出の足がかりも作ります。
③「三代目」慕容儁
慕容皝が死んだあとは慕容儁が即位します。慕容儁は慕容恪をはじめとした優秀な兄弟たちを主力として使い、石虎亡き後混乱のさなかにあった中原への大攻勢を開始します。
幽州の薊(北京)に遷都し、後趙滅亡後、冉魏の冉閔も倒し、中原の大都市・鄴も落とします。
そして、皇帝に即位し、東晋の冊封体制からも離脱します。その後、鄴に遷都し中原に引き続き勢力を広げていきました。
慕容儁は、東晋、前秦を滅ぼして中国を統一しようとしましたが、病に倒れ、360年に死にました。
ここまでが、慕容暐が即位するまでの流れです。
落日前の栄光
前燕の落日と書きましたが、慕容暐が即位してから7年までは前燕はその絶頂まで登っていきます。
それは太宰となった慕容恪の能力によるものでした。
慕容恪は、慕容儁の弟で、慕容皝から慕容儁の時代まで、前燕の戦争の主攻を担い、前燕の勢力を拡大させた第一人者と言っても過言ではないでしょう。
その慕容恪が国の実権を握るときがきました。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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