中国史上最大級の戦乱の時代、五胡十六国時代。その各国の攻防を描く ~東北からの疾風、前燕の中原侵攻~⑳ 慕容儁の死

中国史

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慕容儁率いる前燕は、鄴に遷都したあとも、山東、河南、山西の各エリアを経略していきますが、その支配体制はかならずしも盤石ではなく、東晋からの侵攻を受けたりもします。

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東晋の荀羨の侵攻

358年、東晋の将軍、荀羨が前燕の支配する山荘に侵攻してきました。

山茌は今の山東省にあたり、済南市の近くです。

荀羨は山茌を落とし、前燕の太山太守・賈堅を斬ります。前燕の青州刺史・慕容塵は司馬の悦明に援軍を要求します。

これにより、荀羨軍は敗北を重ね、前燕軍は山茌を取り戻します。

内政面での動き

この時期、慕容儁は顕賢里に小学という施設を建て、貴族の息子たちの教育に力を入れます。

また、子供の慕容泓を斉北王とし、慕容沖を中山王に封ずる動きをしています。

東晋の諸葛攸の侵攻

359年8月、東晋の諸葛攸がまたもや、水軍・陸軍あわせて3万の軍を率いて攻めてきました。

諸葛攸軍は、石門という斉北の東の済水の渡河ポイントを渡り、黄河のほとりに陣を置きました。

そして、部将の匡超・蕭館などを進ませ、督護将軍・除冏に水軍3,000を率いさせました。

これに対し慕容儁は、慕容評、傅顔に総勢50000の歩兵騎兵を率いさせ東晋軍を迎え撃たせました。

両軍は東阿の地で戦い、前燕軍は東晋軍を打ち破りました。

こうして、前燕は、東晋からの2つの侵攻も防ぎます。

北方の動き

同じ時期、塞北の賀蘭・渉勒などの7つの国が前燕軍に降伏してきました。

慕容儁の死

359年12月慕容儁は病にかかります伏せます。

慕容儁は、慕容恪を呼び、嫡子の慕容暐が幼いことを理由に、慕容恪に次の前燕の帝位を継がせようとします。

しかし、慕容恪は断り、あくまで慕容暐が跡を継ぎ自分は幼い皇帝をサポートしていくことを慕容儁に誓います。

力あるものがトップになることを繰り返してきた鮮卑にはめずらしい光景です。

慕容恪が人格者なのか、前燕が中国王朝としての体制が整ってきたのか、とりあえずこの継承では血を流れることはありませんでした。

慕容儁は、360年1月に死去しました。

享年42才、在位11年でした。

慕容儁治世のまとめ

慕容儁の在位中に、前燕は、

●中原に進出

●冉魏の冉閔を倒し、鄴を手に入れる

●皇帝に即位して、東晋の冊封体制から離脱

●鄴に遷都

●河北、山東、山西、河南のほとんどを制圧

など、前燕を中原に君臨する国にまで持っていきました。

前燕は、慕容儁の死後、慕容恪が実権を握っている間までにピークに到達しますが、そこから急転直下の滅亡の道に落ちていきます。

その話はまた今度書きます。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 

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