石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第四部「後趙建国」① 319年 石勒、ついに自立する

石勒

こんにちは。

317年、江南では司馬睿が晋王に即位し、「東晋」が成立。(318年に皇帝に即位)

また、ではご乱心ぎみの皇帝・劉聡が死去し、劉粲が即位しますが政治を顧みず、悪臣・靳準によって殺されてしまいます。

靳準は首都・平陽にいた劉氏の一族を処刑し、東晋に帰順しようとします。

靳準の反乱を聞いた、長安の劉曜と河北エリアにいた石勒は、それぞれ靳準討伐の軍をおこし、靳準の反乱は鎮圧されました。

そしてこの反乱中に皇帝に即位した劉曜が長安を本拠地にして、漢の君主になりました。

石勒からみると本社筋にあたる漢の混乱は、このあとの石勒にも大いに影響を与えます。

今回から第四部がはじまります。

 

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石勒、劉曜の行いにブチ切れる

319年2月、石勒は左長史の王脩を、先の反乱鎮圧などの戦勝祝いとして漢に遣わします。

漢の君主となっていた劉曜は、はじめこの石勒からの使者を喜び、石勒に超王の爵位を授けたり、王脩や副使の劉茂にも将軍号を与えたりしてもてなします。

しかし、王脩の舍人の曹平樂という人物が、劉曜に告げ口をします。

「大司馬(石勒)が王脩を遣わしたのは、表向きはあなた様に誠意を見せるためですが、実は国内の強弱をさぐるためで、使者の王脩が帰国したらすぐに貴方様に対して軍を発する予定ですよ。」

この時点で漢の兵は先の反乱などで疲弊しきっていましたので、劉曜はあっさりとこの佞言を信じてしまいます。そして、劉曜は、王脩を処刑してしまいます。

石勒が襄国に戻ったところで、副使の劉茂が逃げ帰って来て、王脩の処刑を報告します。

これを聞いた石勒は激怒し、

「儂は劉氏に仕えて以来、彼らのために働いて来た。彼らが今の発展を遂げたのは、皆儂のおかげではないか。今、成功を遂げたからといって、翻って儂を貶めようとするのはどういうことか。趙王、趙帝は儂みずから名乗ることにする。やつらからの任命を待つまでもないわ。」

そして、曹平樂の三族を族滅しました。

このことが、石勒が自立する原因の一つとなりますが、まあ、基本ほぼ独立した動きをしていましたので、何をいまさら感はあります。

石勒と祖逖の戦い

この時期、東晋の将軍に祖逖という人物がいます。

祖逖は、このあと、黄河長江の間のエリアを拠点とし、石勒の勢力と戦闘を繰り返す東晋初期の名将の一人で、その軍才により石勒勢力を悩ませます。

祖逖

逖は、范陽の生まれで父は上谷の太守だったりしました。

若いときはけっこうな問題児で、14,5才のときになっても書物を読もうとしなかったようで、兄たちもこのことに頭を痛めていたようです。

ただ、金に執着がなく、義侠を好み、意気が盛んで志が高く、いつも耕作地にある建物に通い(畑を耕し)、兄たちの意をくみ、穀物や絹を分け与えられるたびに、これを生活が苦しいものに行き渡らせたので、郷党の宗族たちは祖逖を重要視していました。

若い頃から劉琨(この時期すでに死亡)とマブダチで、寝食をともにし世の中のことを話し、天下が乱れたら一緒に中原を避け(国のために尽く)そう的なことを熱っぽく語り合っていました。アオハルぽいですね。

ちなみに「先鞭をつける」という言葉は、劉琨が、祖逖が東晋に重用されているときに、「いつも祖逖が私より先に鞭をつけて(先行して仕事がもらえる)て心配(くやしい~)」、というところから来ているそうです。

永嘉の乱で、華北が乱れたときに、祖逖は親類親戚など親しい人たち百家あまりを率いて淮泗の地に避難し、そのときに老人や病人などは馬車に乗せて移動させ、自分はずっと歩いて移動し、薬や食べ物、衣服などを皆に供給しました。また集団を維持するためのはかりごとも多く、これにより老若男女問わず祖逖を頼りにし、リーダーに推されます。

その後、泗口に着きそこで司馬睿に認められ徐州刺史に任命されます。その後、軍諮祭酒になり、丹徒の京口に赴任します。

祖逖、北伐軍を起こす

祖逖は社稷が傾いている(国が滅亡しそう)のを憂い、勇士を集い北伐の軍を起こすことを皇帝・司馬睿に上奏します。

司馬睿は、成立させたばっかの東晋をまずは安定させたいと思っていて現状での北伐の意思はなかったので、祖逖を奮威将軍・豫州刺史に任命しましたが、わずか1000人分の物資しか渡さず、兵などはあとは自分たちで集めて、とりあえず行って来いと送り出しました。ひどいですね。

そんな状況ながら祖逖は長江を渡るときに、

「我、祖逖、中原を回復できないうちは、再び長江を渡らぬ!」

と大呼し、これにより兵たちは奮い立ったと言います。

石勒vs祖逖 開幕

長江渡河後、祖逖は江陰の地に駐屯し、武器などを鋳造し、2千の兵をあらたに徴兵しました。

ここから、石勒勢力vs祖逖の戦いの幕が上がります。

祖逖が戦いの舞台としたエリアは主に黄河と長江の間、淮水の南北両岸で、この地域は東晋と石勒勢力がそれぞれ勢力を伸ばそうとしている地域で、さらに両勢力に着いたり離れたりする塢主という小勢力が跋扈する地でした。

塢主とは

永嘉の乱などの西晋末の混乱により、地域の住民たちが胡族の侵入などの攻撃に対処するため塢壁という砦に集まり自給自足をしだしました。その指導者が塢主と呼ばれます。塢主は豪族などがなることが多く、塢主によっては数千家を領有することもあり、一勢力となっていました。

祖逖、塢主勢力を撃破&取り込み、河南エリアを平定していく

祖逖を拠点にしていた張平や樊雅などの塢主を、計略によりその他の塢主を利用しながら戦い、まず張平を血祭りにあげます。

その後、張平の兵を吸収した樊雅と激闘を繰り広げますが、ここで自称陳留太守蓬陂の塢主・陳川が部将・李頭を派遣し祖逖を助けます。李頭は活躍し、祖逖はを奪還することに成功します。このことで李頭は祖逖から厚遇されます。李頭は、陳川がよほどブラックなのか「この人(祖逖)が主人だったら、死んでも惜しくないわい」などと言っちゃいます。これを聞いた陳川は怒り、李頭を処刑します。まさにブラック企業ですね。このあと、李頭の部下の馮寵たちは自分たちの部下を率いて祖逖に降ります。これを聞いた陳川はさらにブチ切れ、豫州の諸郡を掠奪しますが、祖逖に撃破されます。

その後4月に、陳川は石勒に降伏してしまいます。

石虎と祖逖が戦う

そのあと、祖逖陳川蓬關に攻撃します。これを聞いた石勒石虎に兵5万を率いさせ救援に向かわせます。石虎は祖逖と浚儀の地で戦い、祖逖を破ります。(資治通鑑だと上記のように祖逖が敗北していますが、晋書だと祖逖が石虎を大破したとあります。記述が異なるのマジ困るわ(泣))石虎はそのあと梁國まで兵を引きそこで駐屯します。石勒はさらに桃豹を派遣し蓬關まで進ませます。これを受け祖逖は淮南まで引き駐屯します。

石虎はこの戦いのあと、陳川とその部衆5千を本拠地・襄国に徙します。桃豹はそのまま留まり陳川の故城を守ります。

この後も石勒vs祖逖の河南を舞台とした激闘は続いていきます。

 

石勒、後趙を建国

319年の祖逖と石勒の戦いが一段落したあとですが、石勒は北のほうへ目を向けます。

石勒は石虎を派遣し鮮卑日六延朔方に攻撃し大破します。さらに孔萇幽州の諸郡を攻撃させ獲得することに成功します。このへんを治めていた段部の段匹磾の部衆は飢饉に陥り逃散し、上谷郡へ移りここを保持しようとします。しかしこれを聞いた代王・拓跋鬱律は段部勢力を攻撃しようとし、やばいと思った段匹磾は妻子を棄てて樂陵の地に逃げ邵續の勢力に身を寄せます。泣きっ面に蜂とはこのことです。

また山東エリアで割拠している曹嶷は、石勒に賄賂を送り黄河をもって両勢力の国境としましょうと申込み石勒に許可されます。

劉曜、国名を趙に変える

319年6月、漢の皇帝・劉曜宗廟、社稷、南北の郊長安に建設して人臣に告げます。

「私の祖先は北方にて起こり、光文皇帝(匈奴漢の初代皇帝・劉淵のこと。後漢の初代皇帝・劉秀のことではないぞ)のときに、漢の宗廟を立てて、人民のねがいに従って建国した。今、私は国号を改め、単于をもって祖とすることにする。すみやかに議論せよ。」

これに対し、群臣どもは奏上します。

「光文皇帝(劉淵)ははじめ盧奴伯に封ぜられました。陛下はまた中山で王になりました。中山の地は趙から分かれた地です。国号は趙とするのがよいでしょう。」

ちなみに盧奴は西晋の行政区でいう冀州の「中山国」にある県です。かつて劉淵は西晋の八王の一人、成都王・司馬穎から盧奴伯に任命されたことがあります。

劉曜はこの奏上に従い、冒頓単于を天に配し、劉淵を上帝に配し、国名を「趙」に改名しました。

ここから匈奴の「漢」の国は史上「前趙」という呼ばれ方になります。このブログでもこのあとは「前趙」と書くことにします。

しかしここに来ていきなりの国名の変更は少し驚きました。

石勒、趙を建国する

さて、319年の冬になると、石勒の勢力でも動きがあります。

左、右長史の張敬と張賓、左、右司馬の張屈六と程遐などの石勒勢力の重臣たちが石勒に尊号を称することを勧めます。しかし石勒は許しません。

11月になると、石勒勢力の将軍、部将たちが再び石勒に、大將軍、大單于、領冀州牧、趙王を称すること、また蜀漢の昭烈帝(劉備)に在住して蜀漢を建国した故事や、魏の武帝(曹操)に在住して魏国を建国した(曹操当時の魏国は漢の国の中の一分国な位置づけ)故事に基づき、河內などの二十四郡を趙国として統治し、太守たちを皆内史とし、「禹貢」(古代中国の地理書、 書経の中の一編)の記事に準じ、冀州の境界あたりを回復し、大単于として百蠻を鎮撫し、幷、朔、司の三州を廃止し、部司を置きこれを監督することを求めます。

このタイミングで石勒はこのことを許し、ここで趙王に即位します。

これにより石勒は漢(前趙)の支社長的な立場から独立をし、ここに(また)「趙」が建国されました。

それにしても、劉曜が「趙」と国号を称した直後に、あらたに「趙」と称して独立するというのは、完全に劉曜に喧嘩売っていますね。

 

二趙並立

ともあれこれで華北には「趙」と称する国が東西に並立することになりました。

劉曜の趙を「前趙」、石勒の趙を「後趙」と後の世の人々は読んでいますが、時代が前後するわけでなく同時期に存在したんですね。

奴隷まで落ちた石勒は、そこから這い上がっていき、ここで漢(前趙)の部将から自立、一国の君主となります。

このあとから君主としての石勒の活躍がはじまります。

 

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』


五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)


魏晋南北朝 (講談社学術文庫)


 

 

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