石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第二部「漢の将軍として戦う」⑨ 311年 石虎の合流と、関中での晋の反撃

石勒

こんにちは。

晋の首都・洛陽を落としたあと、石勒河南~淮水周辺~江北あたりをフラフラと自分探しをしていました。

そのあたりは、晋の残党や、石勒の同僚の王弥もフラフラと存在していましたが、石勒はまず晋の苟晞を攻撃してこれを捕らえることに成功します。

石勒、自分探しをしつつも、まわりの敵にはきっちりと攻撃をしかけます。

そして、「まわりの敵」認定していた王弥にも石勒は仕掛けます。(一応漢の同僚のはずだが)

困っていた王弥に援軍を送り、すっかり王弥を信じ込ませたあと、飲み会に誘い暗殺、その勢力をまるごと吸収します。

自分はまだ探せていなくても、敵対勢力は順調に倒していき勢力を大きくしつつある石勒ですが、このあとはどういう行動をとっていくのでしょうか?

 

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石虎が石勒軍団に合流する

王弥を飲み会の席で斬って、その勢力を取り込んだ石勒ですが、そのあと兵を率いて豫州の諸郡を掠奪してまわり、長江を見物して(江南も狙っちゃおうかな~とにおわせ)還ります。

その後、葛陂という地に駐屯します。

この時期に、以前石勒が奴隷として売られたときに生き別れになっていた石勒ママが、実は晋の劉琨に保護されていて、甥の石虎とセットにして石勒の元に送付されてきました。

劉琨は、石勒にこう手紙を送ります。

「将軍(石勒)の用兵はまさに神!向かうところ敵なしですね。それにもかかわらず天下を放浪し、拠って立つ地がない状態になっており、百戦百勝してもわずかな功もありません。私が思うに、主君(晋朝の皇帝)を得ればその率いる兵は義兵と見なされ、逆賊に付けばそのまんま賊と見なされてしまうからであります。成功と失敗のめぐり合わせは、呼吸と似ているところがあります。強く吹けばその息は寒く、ゆっくり吹けばその息は温かくなります。今、将軍に侍中、車騎大將軍、領護匈奴中郎將、襄城郡公を授けましょう。将軍はこれを受け晋に帰順して真の主君を得るべきです。」

どっかの王弥の手紙のようなキモい箇所もあり、「母ちゃん送ってやったからわしらの味方につけよ」という恩着せがましい部分が見え隠れというか見え見えな内容です。

石勒は返事を書きます。

「私の成すべきことはまだ道半ばです。あなたのような腐れ儒者が理解できることではありません。あなたは本朝(晋)のために働くとよいでしょう。私は胡族の危機を救うために働きます。」

と慇懃無礼(というか無礼)な返事を送りますが、一応母親を送ってくれたことには感謝し、名馬、珍宝を劉琨に送り、その使者に厚く礼をし、はい終了~、と劉琨とのやりとりを終了します。

石虎

さて、石勒ママと一緒に送られて来た石虎ですが、のちに石勒の軍の主攻になり、石勒死後は石勒が打ち立てた後趙の君主になる男です。

しかし、このとき17歳で、性格は「殘忍無度」で軍内でも問題児となっていました。

この様子を見ていた石勒は石勒ママに、

「このガキは凶暴でまるでヤクザのようです。軍人に命じて殺させるのもなんなんで、自裁させましょう。」

石勒ママはこう応えます。

「快牛も子牛のときは、よく車を壊してしまうと言います。あなたは少し我慢しなさい!」

これによって処断を免れた石虎ですが、成長すると弓馬をよくし、勇ましく当代の人物になりました。(良い意味でも悪い意味でもです)

石勒は石虎を征虜將軍に任命し、城を攻めさせると城ごと屠り敵の生き残りは少ない状態であったが、率いる軍の軍規は厳しくこれを破るものはいなかったといい、攻撃を命じられれば向かうところ敵なしという状態でした。よって石勒も石虎を重用するようになったといいます。

石勒はこの時期、滎陽太守・李矩を攻めますが返り討ちにされます。

晋の名称・賈疋、関中で晋に反撃をはじめる

311年9月に漢によって長安は落とされ、守っていた南陽王・司馬模は殺されます。

そのあと、司馬模の部下の索綝、麴允、梁肅などは、安定太守・賈疋の元に逃げようとします。

このとき賈疋は、周辺にいた氐族、羌族たちと一緒に漢に人質を送ろうとしていましたが、索綝たちがこの護送の群れに出くわし、人質たちを奪い臨涇県という安定郡の郡治所にやって来ます。

そして人質が解放され自由を得た賈疋は、索綝たちと語り合い晋朝の復活を目論みます。

賈疋は平西將軍に任命され、晋朝復興のために5万の兵を率いて長安奪還に向かいます。

この時期、晋の雍州刺史・麴特新平太守・竺恢はまだ漢に降伏せずに頑張っていましたが、賈疋の挙兵を聞いて、扶風太守・梁綜とともに10万の兵を率いて賈疋に合流します。

滅亡直前のこの時期になってもまだ合計15万の対漢の兵を起こせる晋はまだ侮りがたしです。(場所によってはグダグダになっていますが)

賈疋の起兵を聞いた新豐にいた漢の河內王・劉粲は将軍の劉雅趙染新平を攻めさせましたが、敗退します。

そして漢の攻撃を知った晋の索綝新平に救援に向かい、大小百戦し劉雅たち漢軍を打ち破ります。

漢の関中での最高司令官である劉曜は、黃丘の地で賈疋の軍と激突し、劉曜は大敗を喫してしまいます。

かつて劉淵から「劉家の千里駒」という評価をもらっていた劉曜を完膚なきまでに叩き潰した賈疋は紛れもなく名将でしょう。

賈疋は勢いに乗って漢の梁州刺史・彭蕩仲も攻撃しこれを殺し、麴特たちも劉粲新豐で打ち破ります。劉粲は平陽に撤退せざるを得なくなりここで賈疋たちの勢いは最高潮になり、関西(関中エリア)の胡族、晋の関係者たちはこぞって賈疋たちを饗応したといいます。

司馬鄴の関中入り

賈疋による漢軍撃破の話を聞いた晋の閻鼎司馬鄴を奉じて関中に入り、長安を本拠地にして各地に号令をかけることを目論みます。

司馬鄴は、恵帝、懐帝(平陽に連行中)の甥にあたります。

閻鼎はついに関中入りを実施しようとしますが、荀藩、劉疇、周顗、李述といった山東エリア出身の晋臣たちが「わしら西に行きたくないわ」と拒否り、途中で「逃散」してしまい閻鼎もそれを追撃し一部殺害という、一枚岩にまったくなれない晋の姿を映し出します。

閻鼎はしょうがなく、司馬鄴から武関経由で関中に向かおうとしますが、途中の上洛で盗賊どもに襲われ、ここでも士卒が敗北、散り散りになり消滅という踏んだり蹴ったりの状態になります。

なんとか残兵をまとめ関中に入ったところにある藍田までたどり着き、ここで人をやり賈疋を呼び、賈疋が送ってくれた兵によって保護されます。その後311年12月に雍城に入ることができ、ようやく落ち着くことができました。

関中では、このあと長安奪回を目指し賈疋率いる晋軍が、劉曜率いる漢軍と激闘を繰り広げます。

そして、石勒もこのあと淮北エリアでついに自分を見つけ、大きく動き始めます。

 

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』


五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)


魏晋南北朝 (講談社学術文庫)


 

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