五胡十六国時代 魔王・冉閔の冉魏建国記 地獄への飛翔編①「梁犢の乱勃発」

冉閔

こんにちは。

五胡十六国時代最強の男にして、当代の英雄である冉閔が、魔の国後趙を滅ぼし冉魏という漢人の国を建国するまでの物語を書いてます。

前回、後趙の将軍として、持ち前の武力をいかし、各地の戦いで活躍する冉閔を書きました。

後趙は石虎の治世に、石虎の自業自得の行い&息子たちの出来の悪さで、一族同士が争い合う状態が続き、内政面も混乱していきます。

そして、石虎の太子であった石宣が、石虎の寵愛を受けて増長していた石韜を殺し、その石宣も怒り狂った石虎に処刑されたことに端を発し、石虎が病になるという状況になり、ますます国内が混乱していきます。

そのような349年に後趙を揺るがす反乱が起こり、そこから冉閔が飛翔していきます。

しかしそれはまさに地獄へのダイブでありました。

※冉閔はこの当時「石閔」と名乗っていますので、以下「石閔」と表記します。

347年頃の勢力地図

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349年、梁犢の大反乱が起こる

349年が明けると、病に臥していた石虎が、皇帝に即位します。

自分の死期を悟っていたのでしょうか、このタイミングでとうとう皇帝になりました。

そして同じ月に、後趙国内の西方で異変が起こります。

東宮高力

先に、石虎によって処刑された前の太子・石宣が選抜した「東宮高力」という集団が、石宣が処刑されたことに連座して涼州に島流しにされ、涼州への途上で、雍城という関中エリアの長安の西にある県まで到着していました。

東宮高力は、太子のいる東宮を衛るために、石宣が選んだ「多力の士」です。

高力たちは、雍州刺史の張茂(前涼の君主だった張茂とは別人)に馬を奪われ徒歩で小さな車を運ばされるなどのひどい扱いを受けます。

そこで梁犢という人物が、高力たちの恨みを利用して反乱を起こし東へ帰ることを謀ります。

高力たちも、躍り上がり手をうち大いに叫ぶなど興奮とともにこの案に賛成します。

よほど中央に対する恨みが深かったと思われます。完全に石虎のさまざまなミスから端を発していると思われます。

梁犢軍関中エリアを席巻する

梁犢は高力たちの支持を受け、東晋の征東大将軍を自称し行動に移ります。後趙に反乱するので東晋の将軍を自称せざるを得なかったのでしょう。あわよくば東晋からの援助も期待していたかもしれません。

梁犢の軍は、まず下辯を攻撃しこれを陥落させます。

梁犢の乱開始時の図

下辯は当時前仇池の地で関中からかなり南の山地に入ったところなので、いきなりなぜ下辯を攻撃したのか謎です。

仇池に後ろをつかせないための攻撃だったのかもしれません。

梁犢の反乱を聞いた、後趙の安西将軍・劉寧安定より出撃し梁犢軍を討とうとしますが、梁犢軍に撃破されます。

梁犢が率いる高力たちは選抜されたエリート集団で、「多力善射」で一人で十人以上の敵を相手にできたと言います。彼らは武器を持っていませんでしたが、農民どもから斧を奪い、それを武器にして戦ったとあります。

高力たちはほとんど神レベルの強さをほこり、梁犢軍として関中の郡県を次々と陥落させ東へ長駆し長安まで到達しました。このときには梁犢率いる集団は10万の軍になっていました。もはや大反乱の体をなしてきました。

当時、長安は石虎の息子の一人、楽平王・石苞が駐屯しており、石苞は全力でこれに対抗しまうが、わずか一戦で敗北、梁犢軍はさらに東へ進み関中の蓋にあたる潼関を過ぎ、洛陽へ向けて軍を進めました。

石虎、李農を総大将に討伐軍を向かわせるも返り討ちにあう

石虎はこの反乱の報を聞き、李農大都督・行大将軍事に任命し、衞軍將軍・張賀度、征西将軍・張良、そして我らが征虜将軍・石閔を率いさせ10万の兵で討伐に向かわせます。

後趙の討伐軍と梁犢の反乱軍は、新安というところで激突します。

新安は今の三門峡市から東の洛陽に向かう山地内のルートにあります。ちょうど三門峡市と洛陽盆地の中間点あり、漢代に武帝が作った新函谷関よりしばらく西へ進んだあたりです。(有名な秦の国門の旧函谷関は前述三門峡市の少し西にあります。武帝はより洛陽に近い地に函谷関を新たに作って洛陽盆地西の守りにしたのですね。もしくは洛陽から西に出てくる敵に備えた可能性もあります。)

李農としては、洛陽盆地に入られる前に反乱軍を食い止めたかったのでしょう。

しかし、後趙の討伐軍は、新安の戦いで大敗してしまいます。

さらに洛陽での戦いでも敗退し、洛陽盆地から華北平原に出るところにある成皋で防衛ラインを作り防がざるを得なくなってしまいます。

梁犢率いる反乱軍が成皋関のラインを超え、華北平原に進出する

成皋は成皋関という関があります。成皋関は三国志で有名な虎牢関のことです。三国志の虎牢関の戦いでは、洛陽盆地に入る袁紹率いる反董卓連合軍を呂布率いる董卓軍が防ぐという構図でしたが、梁犢の乱では、反乱軍が洛陽盆地から華北平原に出てくるのを成皋関で防ぐという構図のようです。

とは言え、その後反乱軍は「ついに東の滎陽、陳留の諸郡を掠奪し、・・・」とありますので、成皋関の防衛ラインも破られたようです。

349年、梁犢の乱の関連地図

石閔も一連の戦いに参加しているはずですが、なぜかこのときの戦いでは、とくに目立った活躍が史書に記載されていません。「晋書載記の冉閔の項」ではこの反乱のあと、「威聲彌振」と評判がものすごく上がったようですので、石閔個人では相当な活躍はしていたのでしょう。

反乱軍はついに後趙の首都鄴につながる華北平原に進出してきました。(滎陽、陳留からは北の黄河を超えるとすぐ鄴のある後趙の首都圏になりますので、防衛上かなりまずい状態です。)

石虎、姚弋仲と蒲洪を反乱鎮圧に投入する

後趙皇帝・石虎はこの反乱軍の進出を大いに怖れ、さらなる援軍を向かわせます。ここで当時後趙の将軍になっていた、姚弋仲(のちの後秦の建国者・姚襄の親父)や蒲洪(のちの前秦君主・苻堅様のじいさん)なども投入します。

のちに各地に散って五胡十六国時代を彩る国々の父祖たちもこの時代後趙の武将として登場します。

後趙としても総力をもって梁犢の反乱に対処せざるを得なくなり、梁犢の乱はこの後の後趙の運命を決める出来事の一つとなります。

 

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』


五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)


魏晋南北朝 (講談社学術文庫)

 

 

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