五胡十六国時代 魔王・冉閔の冉魏建国記 黎明編

冉閔

こんにちは。

今回は、五胡十六国時代において「最強」と謳われる冉閔について書こうと思います。

冉閔は、多くの五胡十六国時代のファン(ファンの絶対数自体が多いとは言わない(´ε` ))から「最強」の武人と讃えられる人物です。

しかし、胡人20万を虐殺したなど残虐なる魔王的なイメージも多分にもっている人物でもあります。

冉閔は、魔族の勇者・石勒が作った魔の国「後趙」の跡を半ば強引に奪った大魔王・石虎が没した跡、魔の国の後継者をことごとく葬り滅亡させ、漢人の国・冉魏(これも魔の国)を建て自ら魔王となります。しかしその直後北から襲来した別の魔族・慕容鮮卑どもに敗れ2年で滅亡という、ファンタスティックな生涯を送っています。

ただ、その戦いの歴史はいまいちわかりません。

そこで、冉閔が冉魏を建国するまでの物語をその戦歴を追って書いていこうと思います。

あっ、冉魏はあっという間に滅亡してしまったので、五胡十六国の「十六国」に入っていませんよ。

「最強の男」冉閔が、「最高の名将」慕容恪と戦った「廉臺の戦い」についてはこちらから

 

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石虎の養子・石瞻(せきせん)の息子として生まれる

冉閔の父、石瞻は十二歳のときに、後趙の創設者・石勒が陳午という武将を破ったときに、捕らえられ捕虜となり、石虎の養子にされました。もともとは冉瞻という名でしたが、このときから石瞻になります。この石瞻も相当な勇将として知られ、後趙の対東晋戦役で大活躍します。

冉閔はこの石瞻の息子で、生まれたときから石閔と名乗っていました。

幼いときから、決断力に富み気力が鋭い人物であり、石虎から本当の孫のように可愛がられてしました。

成長すると身長八尺(196センチ【東晋・十六国時代の1尺24.5センチ換算:中国まるごと百科事典というページを参考にしました】)になりました。

2メーター超えの化け物クラスのタッパを誇る慕容鮮卑の一族どもにも劣らない堂々たる体躯を誇っていたと思われます。

冉閔は「謀策を善くし、勇力絶人(勇気があり、力が強いことが、常人とへだたっていた)」とありますので、智謀もありつつ、人のものと思えない武力を誇っていたようです。

石虎の将軍としての戦い

冉閔は、石虎存命中には、後趙の武将として、数々の戦いに参加しています。

前燕への侵攻戦

338年に石虎が数十万の大軍を率いて前燕へ攻め込んだとき、石閔(冉閔)游撃将軍として参加しました。

※以後、「冉閔」に改名するまでは石閔と表記します。

この戦いでは、後趙軍が前燕の棘城に猛攻をかけますが、前燕の武将・慕輿根の粘りの力戦により攻めあぐねてしまいます。そして、兵を引くところに慕容恪の急襲を受け、後趙軍は大敗し武器鎧を捨て潰走してしまいます。

この戦役でバラバラになった後趙軍の中でただ石閔の軍のみ、軍としての形を完全に保っていたと言います。

対東晋の南征

339年8月、東晋の庾亮が武昌に駐屯し、毛寶、樊峻たちを邾城の守備に任命しました。

邾城は今の武漢から長江を降ったところの北岸にありました。

これを聞いた石虎は、東晋のこの配置をよく思わず南征の軍を繰り出します。

後趙軍は、夔安を大都督とし5万の軍で侵攻しました。石閔も夔安に率いられた5人の将軍の一人として参加しました。その他の将軍は、石鑒、李農、張貉、李菟です。

後趙軍は、荊州、揚州の北部を攻めたとあり、そのうち2万で邾城攻略に動きます。

この後趙軍の南征は、今の武漢を中心に長江とその支流漢水周辺が舞台となったようです。

9月に後趙と東晋の戦端が開かれます。

まずは石閔が沔陰で東晋軍を打ち破り、東晋の将軍・蔡懷を討ち取ります。

朱保も東晋軍を白石で破り、5人の東晋の将軍を討ち取ります。

そして、張貉邾城を陥落させます。

この戦勝を受け、大都督の夔安は胡亭に軍を進め駐屯し、江夏を攻めます。このとき義陽の將軍・黃沖義陽太守の鄭進などが後趙に降伏してきます。

夔安はその後石城を攻め、東晋の竟陵太守・李陽を破り、その後夔安は兵を退きました。退却時に大いに掠奪をし、7000余戸の住民を連れ帰ったといいます。

石虎の後継者争い

後趙君主・石虎の息子どもは、揃いも揃って質が悪く問題児揃いでした。

元々の石虎の太子だった石邃は石虎に反抗的な態度をとり殺され(石虎にもかなり責任がある)、代わりに太子になった石宣や、石虎から寵愛を受けていた石韜も放蕩三昧を繰り返していました。

348年になると、太子・石宣が、石虎から寵愛される石韜を憎み、ついに石韜を殺してしまいました。

寵愛していた石韜が殺されたことで、石虎は激怒し石宣を惨殺してしまいます。

さらに一連のごたごたで悲しんだり怒り狂ったり忙しかった石虎が病になるというわけがわからない状態になります。基本すべて石虎の自ら蒔いた種(災厄)ではないかと思いますが、後趙内部はかなりガタが出ています。

後趙は、太子であった石宣が死亡したので、石世が新しく太子となります。

後趙はこのあとも一族同士で争いを繰り広げますが、これには石閔も何枚もからんでいきます。

とりあえず後趙は、一族同士の争いで滅亡する五胡十六国時代の典型のような国家です。

新しい魔王・石閔の飛翔を応援するかのように乱れていく魔の国・後趙

石閔が後趙の将軍として各地で戦いながら名をなしていくのと同時に後趙という国は乱れていきます。

前述の、石虎の息子たちの争いがあり、また、対外戦争でもいまいちうまくいきません。

344年と347年には。西方の前涼を攻撃しますが、前涼の将軍・謝艾の活躍などで撃退されます。

347年頃の勢力地図

また、内政面でも様々な混乱が続きます。

このような、外も内も混乱しつつある後趙ですが、349年に西で梁犢率いる大反乱が起きます。

そして、中国史上でも屈指の暴君と崇められる(?)、大魔王・石虎の寿命が尽きようとしていました。

ここから石閔の最強の武力が後趙を蹂躙していき、後趙内の第一人者へと進んでいきますが、しかしそれは石閔にとって破滅への修羅の道でした。

 

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』


五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)


魏晋南北朝 (講談社学術文庫)

 

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