ゆるっとふわっと中国史の流れを書いてみる③ インシュウその2 東周【春秋時代】

中国史の流れ

こんにちは。

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中国の歴史の流れを書きます。

前回は、西周までを書きました。

インシュウシンカン・・・の、殷のあと周王朝がはじまりますが、周の幽王は前771年に犬戎に攻められて殺されます。これで西の関中エリア・鎬京を都とした「西周」は滅びます。

その後770年に平王が東の洛邑(現在の洛陽あたり)を本拠として、「東周」がはじまります。

周王朝自体は続いているのですが、この周の東遷で西周、東周と時代を分けています。

そして、この東周のはじまりは、「春秋時代」のはじまりになります。

ここから、中国史の中でも人気の時代「春秋戦国時代」がはじまります。

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春秋戦国時代とは

「春秋戦国時代」について、簡単に説明します。

「春秋戦国時代」は、イコール東周時代ですが、

春秋時代(前770年~前403年)

戦国時代(前403年~前221年)

で春秋時代と戦国時代の2つに分かれます。(周王室自体は前255年に秦によって滅ぼされます。)

インシュウシンカンの

シュウ時代が、西周と東周の2つで構成され、

東周がさらに「春秋時代」&「戦国時代」の2つで構成されるという形になります。

東周の時代になっても周王は存在していますが、どんどん力が無くなって行き、春秋時代に各地の諸侯(のちに王になっていく)たちが力をつけていき戦国時代になり、戦国時代期に各地で王を称した国々も最終的に戦国七雄と呼ばれる7国に糾合されます。

春秋時代の春秋の名前は、この時代に生きた孔子作と伝えられる『春秋』という魯の国の歴史書に由来し、戦国時代は漢の劉向が編纂した『戦国策』という書にちなみます。

春秋時代の流れ

春秋時代は、上述のように周の平王が洛邑を本拠にしたところからはじまりますが、西周時代に1800もあった国(1つの邑(都市)とその周辺のみを支配する都市国家)が春秋時代には数十までに淘汰されていきます。

この時代は周王の力が弱まっていき、上記の都市国家を支配する諸侯の中でもいくつかの有力諸侯が力をつけていきます。

春秋五覇

とくに力をつけた諸侯は、他の諸侯のまとめ役になり、「覇者」となるものも現れます。

諸説ありますが、「春秋五覇」と呼ばれる5人の覇者には、

斉の桓公(前685年 – 前643年)
晋の文公(前636年 – 前628年)
秦の穆公(前659年 – 前621年)
宋の襄公(前651年 – 前637年)
楚の荘王(前614年 – 前591年)
※()内は在位

が上げられます。

秦の穆公と宋の襄公を外して、

呉王闔閭(前515年 – 前496年)
越王勾践(前496年 – 前465年)

が五覇に数えられる場合もあります。

いずれにせよ、春秋時代に大きな力をもって指導的役割ができた諸侯たちです。

前770年~前700年頃まで(周王室の失権)

春秋時代の流れを有名人をピックアップして簡単に流れを書きます。

前770年に周王室が東遷し、「東周」の時代になったあと、周王の権力は失墜し逆に各地の諸侯が力をつけて来ます。

前700年代は、が周に反抗的な態度を取り、それに周王も対抗します。

707年には周の桓王蔡、衛などの兵を率いてを攻めますが返り討ちにあい、周王室の権威はさらに失墜します。

この時代に、中原の周辺でも各諸侯が力をつけて来ます。北では晋、南では楚、東では斉、西では秦が周りの小さな国々を糾合していきます。

前700年頃~前600年頃(斉、晋、楚、秦の台頭)

斉の台頭

前700年を過ぎてまず台頭してきたのはでした。

斉の桓公管仲を宰相にし国力を伸ばし、679年に会盟を開き「覇者」となり、諸侯に対して指導的立場になります。

この時代あくまで王は周王のことですが、その権威を大きく失っており、その周王の代わりに諸侯の中で力をつけたものが、他の諸侯をまとめるという体制になりました。日本の天皇の代わりに征夷大将軍が諸侯をまとめるという形もこれに近いですかね。

斉の桓公はその後も会盟を行い、斉の国としてもブイブイいわせますが、管仲の死後は桓公がご乱心、国力も振るわなくなり、桓公の死後、後継者争いが起こり国内が混乱に陥ります。桓公の遺体も後継者争いでほっとかれ蛆が湧いてしまったという悲しい末期になります。

宋の襄公のマヌケぶり

このあたりから楚が力をつけはじめ、北への侵攻をはじめます。(この時代の楚はほぼ蛮族扱いされています。)

また、宋の襄公が中二病を発症し、自分も覇者になろうとし、たいした国力もないのに積極的に活動します。

638年に宋vs楚の泓水(おうすい)の戦いが起こり、宋の襄公は有名な「宋襄の仁」を発動。楚に大敗してしまいます。

「宋襄の仁」は、楚軍が川を渡っている今攻撃すべきだという家臣の言葉に、襄公は「君子たるものそのような卑怯なことはすべきではない!えへん!」と答え、楚軍に川を無事に渡らせてから自軍に攻撃をさせ、結果宋軍大敗北という結果になったというマヌケ極まりない話です。

襄公は身の程をわきまえない愚か者代表に任命されました。

ただ襄公は人間的には素晴らしい人物だったらしく、斉の管仲にも信頼されていたようです。

晋と秦の台頭

秦は穆公が即位したあと、百里奚という人物を宰相にして、力をつけていきます。

そして、では献公のときに夫人の驪姫が自分が生んだ子供を跡継ぎにしようと画策したことから、公子の張耳(のちの文公)は他国へ亡命します。

この話は、横山光輝三国志で、劉表の息子・劉琦が孔明に悩み相談をしたときの孔明のたとえ話として出てきます。

献公が死んだあと晋は後継者争いが起こります。張耳もそのような混乱状態ではちょっと帰国できないなということで19年の亡命生活を送ります。

結局、秦の穆公の力を借り、前636年に帰国し当時の君主を殺し晋の文公として即位します。

文公は内政を整え、領土も拡張し晋を強国にします。

このとき楚が北へ力をのばし、宋の国都を囲み、宋は晋に助けを求めます。

晋も軍を出し、前632年「城濮の戦い」で晋は楚を大破しました。その後普の文公は覇者になります。

晋と秦は晋の文公が生存中は仲が良かったのですが、文公死後急速に関係が悪化します。

その後、晋と秦は何度か戦います。

また、秦は西戎を打ち破るなどし、力をつけていっていましたが、前621年に穆公が死去。その後この名君の後を追い177人の家臣が殉職してしまい、国力を落としてしまいました。名君すぎるのも考えものな出来事です。

楚の台頭

その後、力をつけてきたのは南のです。これまでも楚は北進をたびたび行っていましたが、621年に荘王が即位、国内を整え、また北へ圧力をかけます。

楚は周から封建された国ではなく自分たちの実力で勢力をはったので、周王がいるのに「王」を名乗っています。

楚は北への侵攻を続け、晋と対立します。この頃から中原の中小国は晋と楚の二大国の間でどちらにつくかの選択を強いられ続けます。さらに楚の荘王は周に対して「鼎の軽重を問う」イベントを発生させ周王に禅譲を迫るということもします。

そして前597年「邲(ひつ)の戦い」で晋を大破し、この時期の覇を唱えることに成功します。

前600年頃~前500年頃(晋と楚の南北対立と名宰相の時代)

晋は楚に覇権を奪われますが、その後も晋と楚の南北対立の形勢は続きます。

晋も前575年の「鄢陵(えんりょう)の戦い」で楚を破り、巻き返します。

晋と楚の南北の超大国同士が対立するこのあたりから、諸侯同士の争いは減っていきます。そして前546年、「弭兵(びへい)の会」という停戦の盟約が晋と楚の間で結ばれます。

貴族の台頭

このように国同士の争いは減ってきたこの時期ですが、逆に各国の国内での争いが増えていきました。王と貴族、貴族同士の争いが起こり、全体として貴族の力が増していきます。有名所で言うと、晋の六卿、斉の六卿、魯の三桓、鄭の七穆などがいます。

そして南では、この前6世紀の半ばころから、次の前5世紀前半に主役となる呉越の2国が勃興してきます。

名宰相たち

さて、前6世紀の後半から名宰相と呼ばれる人物が出てきます。

有名なのは、鄭の子産斉の晏子です。

子産は鄭の宰相として軍制改革、税制改革など様々な改革を行い、中国史上初の成分法の制定を行い、鄭国の立て直しを行いました。

晏子晏嬰が本名で斉の3代の王に仕え、宰相として、桓公と管仲の時代以来の隆盛を斉にもたらしました。

この頃から青年期の孔子様も魯国で活動をはじめます。(前497年に失脚、流浪の旅に出る)

子産と晏子の二人は、のちに孔氏様からも大絶賛されるこの時代のスーパー宰相たちでした。

前500年頃~前403年(呉越戦争と春秋時代の終焉)

呉越戦争

前500年頃から南の長江周辺から強国が出てきます。

このエリアはもともと大国・楚が羽振りを利かせていましたが、という国が新しく出てきました。

呉は6代目の闔閭の時代にまず飛躍します。

楚の平王に父を殺されて恨み骨髄に徹していた伍子胥を宰相に迎え、さらに伍子胥の推挙で「孫子の兵法」で有名な孫武を召し抱えます。

前506年に呉は楚に大攻勢を仕掛け、楚の首都・を陥落させました。

この時点では伍子胥の仇、楚の平王は死去していましたが、伍子胥は平王の墓を暴き死体を300回の鞭打ちの刑にした有名な「死人に鞭打つ」のイベントが発生します。

呉が楚を攻めている間にさらに南のが呉を攻めたので闔閭は急ぎ引き返します。

その後、越は句践が跡を継ぎ王となりますが、この引き継ぎのタイミングを狙って呉王・闔閭は越に攻めました。しかし越の軍師・范蠡の策にはまり敗退、闔閭も負傷し退却中に傷が悪化し死去してしまいます。

このときに闔閭は太子の夫差に仇討ちを誓わせます。

夫差は即位し呉王になりますが、父の仇討ちのことを忘れないために毎晩薪の上で寝るという「臥薪(がしん)」という苦行を実行します。だいぶドMな人物であったと思います。

そういう苦行を行いながら、2年後に呉王・夫差越王・句践を打ち破り会稽山に籠城した句践を捕らえ仇を討ちます。ただ夫差は句践を処刑すべきだという伍子胥の意見を聞かずに句践を許し帰国させました。

句践は帰国後、「この恨み晴らさずにおくべきか」と毎日部屋に吊るした動物の肝(とても苦い)を嘗め復讐を誓います→「嘗胆(しょうたん)」

呉王・夫差と越王・句践の恨みを忘れないための苦行を2つ合わせて「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という故事成語になります。現代では「将来の成功を期して苦労に耐えること」という爽やかな意味になっていますが、昔のドMの王2人が復讐を忘れないために行ったドロドロの仇討ちの話が起源になります。

さて、句践軍師・范蠡とともに呉への逆襲を狙います。

呉は越を破ったあとも各地を攻めブイブイいわせていましたが、じわじわと范蠡の策が迫ってきます。范蠡は絶世の美女・西施を呉に送り夫差を骨抜きにしたり、離間の策で呉の重臣・伍子胥を処刑させたりし呉の国力を弱めていきました。

その後も呉は北への侵攻を進めてましたが、越はその隙きを突き呉に侵攻します。これにより呉越の立場は逆転し、越が呉に攻勢をしかけるようになります。

そして前473年夫差を自決させ「会稽の恥を雪ぐ」ことに成功しました。

越は呉を滅ぼしたあと北へ侵攻し、句践は覇王と呼ばれるまでになります。

しかし句践死後、越は衰えていったそうです。

晋が趙・韓・魏の三国に分裂

前5世紀の前半に繰り広げられた呉越戦争のあと、北方の晋で異変が起こります。

春秋時代も終わりに近づいてくると、各地の諸侯の下にいた貴族たちの力が伸びてきて、諸侯たちを圧迫するようになります。

北の大国・国内でも前5世紀前半には范氏・智氏・中行氏・趙氏・韓氏・魏氏の六卿によって国の実権が握られる状態になっていました。

そして智氏范氏と中行氏を滅ぼし智氏の力が一番強くなりました。

智氏は続いて韓氏・魏氏を誘い、趙氏を滅ぼそうとしますが、趙氏は韓氏・魏氏に、

「おれが滅ぼされたら、次はお前たちの番だぞ」と説き、

韓氏・魏氏を味方にして453年「晋陽の戦い」で智氏を滅ぼすことに成功します。

晋の君主はこれ以前に完全に力を失っていましたので、趙氏・韓氏・魏氏の三氏が晋の国土を事実上分け合うことになりました。

趙氏・韓氏・魏氏の三氏は、そのまま戦国時代の趙・魏・韓の国になります。

そして、403年には趙氏・韓氏・魏氏は周王から諸侯と認められ、376年には風前の灯的にかろうじて生き残ってきた晋室を韓・魏の連合軍が攻めて滅ぼします。

この趙氏・韓氏・魏氏の三氏が周王から諸侯と認められた403年をもって戦国時代がはじまりとされます。(諸説あり:453年を戦国時代のはじまりということもあります。)

こうして周王室の東遷から370年近くつづいた春秋時代は終わり、戦国時代がはじまります。

そして東周時代としてはまだまだ続きます。周王はほとんど「いるだけ」の状態になっていますが。

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【参考文献】
佐川英治,杉山清彦 編著『中国と東部ユーラシアの歴史 (放送大学教材)』(放送大学教育振興会/NHK出版発売2020年03月)
岡田 英弘『中国文明の歴史 』(講談社現代新書2004年12月)
貝塚 茂樹 (著), 伊藤 道治 (著)『古代中国』(講談社学術文庫2000年2月)
『別冊歴史REAL春秋戦国500年の興亡』(洋泉社MOOK 別冊歴史REAL2015年10月)

 






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