五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜㉔ 最終回 431年~439年 沮渠蒙遜の死と北涼の滅亡 

北涼・沮渠蒙遜

こんにちは。

428年~430年にかけて、北涼の沮渠蒙遜が弱りはじめた西秦に猛攻撃をかけます。

西秦も粘り、本拠地を奥地に遷すなどの戦略でなんとか北涼の攻撃をしのぎます。

この間、北魏は関中エリアの夏に攻撃をしかけ、壊滅的な打撃を与えます。この北魏の攻撃で華北西部の勢力図がさらに大きく変わっていきます。

428年頃の勢力地図

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431年、夏と西秦の滅亡

西秦の滅亡

西秦は、国がぼろぼろになり、君主の乞伏暮末は北魏に助けてもらおうとし、北魏から、北魏近くの土地への移住を認められましたが、夏に移動を阻まれ途中の南安に留まざるをえなくなってしまいます。

そして、431年1月北魏からボコられた夏が西に逃げてきて攻撃されてしまいます。

夏は1万の兵で南安を攻め、城中は飢餓状態におちいり、人々があい食むという状況になります。

この攻撃により西秦君主・乞伏暮末は夏に降伏。

ここに西秦は滅びました。

北魏に助けを求めたら、その北魏に攻められて西に逃げてきた夏に滅ぼされるという、かわいそうになってくる最後でした。

しかし、400年にいったん滅亡しながら復活を遂げ、隴西のどん詰まりに近いエリアをベースにしながらも431年まで生き延びた西秦という国は、それなりの評価を受けていい国だと思います。

夏の滅亡

西への移動中に西秦を滅ぼした夏ですが、北魏からの圧力は消えず、さらに西へ移動し黄河を渡り沮渠蒙遜の北涼を攻撃し、その土地を奪う計画を立てます。

夏は建国時の掠奪上等のゲリラ半グレ国家に舞い戻ったようです。計らずも基本に立ち戻ったようです。

しかし431年6月、黄河を渡っている途中に、吐谷渾軍3万の急襲を受けて夏の君主・赫連定は捕らえられてしまいます。

ここに夏は滅びました。

一大の風雲児赫連勃勃によって建国され、一時は華北西部の大部分を領土にした夏ですが、赫連勃勃はじめあまりにも残虐で人でなし感が目立つので、滅亡にはざまみろ感しかありません。

とは言え、431年に、華北西部では、西秦と夏という2国が一気に滅んでしまいました。

これにより、関中、隴西の夏と西秦の故地は北魏のものとなってしまいました。

これにより、華北の大部分は北魏が制圧する状態になります。華北で残っている国は沮渠蒙遜の北涼と北燕の2カ国になってしまいます。(一応、後仇池も残っているが、めんどくさいので、あえて無視します。吐谷渾と柔然は元からカウント外)

沮渠蒙遜の外交方針

さて、北魏が華北の覇者となりつつあり、無理ゲー状態に陥った北涼と沮渠蒙遜の打つ手は一つです。

ひたすら北魏様に恭順していくことです!

431年8月に息子の沮渠安周を北魏に入侍させ、北魏との関係性を最重要とすることに国の方針を転換します。

北魏も李順という人物を使者に送り、河西王・沮渠蒙遜に侍中、都督涼州‧西域‧羌‧戎諸軍事、太傅、行征西大將軍、涼州牧、涼王の位を授け、武威、張掖、敦煌、酒泉、西海、金城、西平七郡の王であることを認めます。

河西回廊周辺の土地のナンバーワンであることを称した、オールスター的な役職が並んでいます。

この北魏最重要視の方針はその後も継続され、北涼という国の延命にはある程度の成果を挙げたと思われます。

沮渠蒙遜の死

沮渠蒙遜の病と北魏の戦略

北魏との関係性を保っていくことにした沮渠蒙遜ですが、432年になると病にかかります。

この沮渠蒙遜の病重しを見た北魏の北涼担当・李順は、北魏に帰ったときに北涼の様子を太武帝から聞かれてこう回答します。

「沮渠蒙遜は河右(黄河の西)の土地を抑えて30年になり、様々な困難や苦労を経て、臨機応変のはかりごとを知り尽くしています。民衆を最果ての地に留めおくことに成功し、群臣もおそれ服従しています。子孫たちにそのはかりごとを残していくことはできないでしょうが、なお、沮渠蒙遜が死ぬまでは国は健在でしょう。しかし、礼は徳の基礎であり、敬はみずからの基本でありますのに、沮渠蒙遜は礼も敬もありません。臣がこれを観るに、あの国は長くは持たないでしょう。」

太武帝はまた李順に問います。

「それでは北涼が代替わりしたあと、いつ滅ぼせばよいであろう。」

李順は回答します。

「沮渠蒙遜の息子どもは、臣が見ますに、皆凡庸の才能ですが、敦煌太守の沮渠牧犍はそれなりの器量と聞きます。沮渠蒙遜の後を継ぐのはこの人物でしょう。しかし、父親と比較すると、皆及ばずと言います。この事実は、きっと天が天子(太武帝)を助けているに違いありません。」

太武帝はこれを聞き

「私はちょうどこれから東の燕を討伐しようと考えていて、西の経略はまだ手がつかなかった。卿の言葉を聞くと、西は数年捨て置いても問題ないようだな。」

これにより、北魏の戦略はまず東の北燕を討伐することを優先するということに決まります。

北涼が北魏に頭を垂れている間、北魏のほうはそのうち北涼も征伐しようと考えていたのですね。恐ろしや。

沮渠蒙遜の死

433年3月、沮渠蒙遜の病はますます重くなり、北涼の臣たちは協議し、もともと後継者となっていた沮渠菩提が幼弱であることから、その兄である沮渠牧犍を跡継ぎとして立てます。

4月、沮渠蒙遜は死去し武宣王と送られ、太祖と廟號されました。

その後予定通り、沮渠牧犍が北涼君主の位を継ぎました。

段業を押し立てて北涼を建国し、その後邪魔になった段業を廃し、その智謀により北涼という国を河西回廊全域を制する国まで育てた沮渠蒙遜ですが、寄る年波には勝てず、66歳で生涯を終えたのでした。

沮渠蒙遜死後の北涼

北涼、北魏との関係性を深める

沮渠蒙遜が没したあとも北涼という国はしばらく存続します。

跡を継いだ沮渠牧犍は、沮渠蒙遜の方針を受け継ぎ、北魏との関係を最重要視することを継続します。

北涼は、沮渠牧犍の妹を北魏へ嫁にやり、逆に太武帝の妹の武威公主が沮渠牧犍に降嫁するという二重の婚姻関係を結びます。

北魏の北涼討伐

しかし、その努力もむなしく、439年になると沮渠牧犍が北魏に反心を抱いているとの噂が立ち、太武帝はこれを理由に6月、北涼討伐の軍を起こします。

これより以前436年に北魏は北燕を滅ぼしましたので、華北で残る国は北涼のみになっていました。(後仇池はノーカウント)

436年頃の勢力地図

北魏は南涼王族で北涼から北魏に降って来た源賀(禿髪破羌)を道案内にし、北涼国内に侵攻していきます。源賀は、姑臧城周辺にいた鮮卑の部族たち(元の南涼の遺臣たち)の調略にも活躍し、戦いを有利に導きます。

北涼君主・沮渠牧犍は、北魏の侵攻に多いに驚きますが柔然に救いを求め交戦を選択します。征南大將軍・沮渠董來に1万余りの兵を率いさせ、姑臧の南で北魏軍と激突しますが、撃退されてしまいます。

姑臧陥落

北魏の太武帝も姑臧に到着し、沮渠牧犍に降伏を勧告しますが、沮渠牧犍は柔然が北魏の国境に侵入しようといている情報を聞き、籠城戦を選択します。

しかし、北涼は沮渠牧犍の兄の子・沮渠祖踰が城を出て降伏してしまいます。

この状況を踏まえ太武帝は姑臧城を包囲します。

そして、先の源賀の調略が功を奏し、姑臧周辺の諸部族も北魏に味方することになり、北魏は周辺を気にすることなく姑臧攻撃に専念できることになります。

この後沮渠牧犍の兄の子、沮渠万年もその所領ともに北魏に降伏してしまい、姑臧城は陥落してしまいます。

北涼の滅亡

万事休した沮渠牧犍は、文武の官5千人とともに北魏に降伏をします。

ここに北涼は滅びました。

建国から数えて42年にして北涼は滅亡してしまいますが、一時の狭い領土の小国ぶりからしたら、かなりの長さを生き延びたと思います。

また、五胡十六国時代で42年続いたということは、他の時代だと200年くらい続いたのと同じ価値があると思います。

この439年の北涼の滅亡&北魏の華北統一によって「五胡十六国時代」は終わりを告げました。(後仇池が残っていることはみんなスルーしている)

439年頃の勢力地図

沮渠蒙遜と北涼の話を終えて

五胡十六国時代のことを調べながら、一番ややこしいなと思っていたのが、淝水の戦いのあとの、河西回廊を含む華北西部の興亡でした、なんせ涼という国がたくさん出てくる。

この河西回廊の覇者となったのが、沮渠蒙遜という男でした。戦自体は強くないけど、その智謀と外交によって小国の北涼を河西回廊統一まで持っていったその手腕は魅力的で調べてみたいと思いこのシリーズをはじめました。

調べていくと、沮渠蒙遜は、

知略・謀略の凄まじさ

他国から攻められたときの防衛戦の強さ

外交戦略の確かさ

など魅力的な能力を持っており、北涼がそれなりの強国となったのも納得でした。

北涼以外の、華北西部各国の興亡もできるだけ書いていったので、思ったよりだいぶ長いシリーズになってしまいました。

しかし、五胡十六国時代の中でも知らない部分が多かった華北西部各国の、人物や戦いなどをいろいろ知ることができて、書いていってよかった思います。

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三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

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