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西涼の君主・李暠が死去したあと、北涼の沮渠蒙遜は、417年、418年と立て続けに西涼へ攻撃をしかけ、建康を支配下に入れます。
西涼は李暠の息子・李歆が跡を継いでいましたが、沮渠蒙遜とは役者が違ったようです。じわじわと侵略されてしまいます。
また、華北西部も東晋の劉裕の北伐で後秦が滅亡し、東晋軍の主力が去ったあとの関中を赫連勃勃の夏が制圧するなど大きく勢力図が動いていきます。
そのような中、沮渠蒙遜は西涼侵攻をさらに進めていきます。
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西涼新君主・李歆の暴政
西涼は李歆が跡を継ぎましたが、こいつは、内政に関しては善政を行った父親とは異なり、暴政を行います。
刑罰を厳しくし、宮殿の建設を好んで行うなど、民心が離れることを行っていきます。
家臣たちは、李歆を諌めますが、まったく聞く耳をもちません。
北涼の420年の西涼侵攻
この様子をみていた北涼君主の沮渠蒙遜は、これはチャンスと思い、再度の西涼討伐の軍を起こそうとします。
沮渠蒙遜の計略
しかし、真正面から攻めるのではなく、一計を案じます。
まず逆方面の西秦の浩亹を攻めると見せかけ、手薄になった張掖を李歆に攻めさせ、自領に引き込んだところを討つという作戦です。
沮渠蒙遜は密かに兵を返し、川巖という地に兵を置きます。
李歆を西涼の家臣、太后、みんなが諌める
愚かな李歆はこの沮渠蒙遜も計略にまんまと嵌まろうとし、手薄になっている(と思われる)北涼の張掖を攻めようとします。
この李歆の行動を西涼の臣・宋繇、張體順たちが必死に諌めますが李歆は聞く耳を持ちません。
そこで太后の尹氏(前君主・李暠の妻)が出張ってきて息子を諌めます。
「お前は新しくこの国の君主になったが、この国は地は狭く、民衆は少ない。しかしそれでも専守防衛を行うのなら十分にもつであろう。それが何の暇があってわざわざ他国を討とうと言うのか?!
先王が臨終の際に憂えてお前を戒めたであろう。兵を用いることを深く慎み、国境を保ち、民衆を安んじ、そして天の時を待てと。その言葉がまだ耳に残っているうちになぜお前は先王の戒めを捨てようとするのか!
沮渠蒙遜は優れた用兵家であり、お前ごときでは相手にならないぞ。そしてこの数年、この国を併合せんと常に狙っておる。この国は小国であるが、善政を行い、徳を修め、民を養っている。静かに時を待つのじゃ。沮渠蒙遜が道理に背く乱暴な行いをしたなら、民衆はお前の元に来るであろう。どうして、軽挙妄動をしようとするのか?私はお前が北涼を攻めないことを願うばかりじゃ。私がこの戦の結果をみるに、ただ兵を失うだけでなく、国までも失ってしまうぞ。」
散々な言われようですね。しかし、このバカ殿は母親の言葉も聞き入れませんでした。
これを見ていた重臣の宋繇は嘆いて言います。
「今ここに大事は去ってしまった!」
沮渠蒙遜、西涼軍を大破する
西涼のバカ殿・李歆は家臣や太后のさんざんの諌めも聞かずとうとう3万の軍を率いて東へ出陣します。
このことを聞いた沮渠蒙遜は、
「李歆は我が術中にはまった。しかし、儂がすぐに軍を返すと、そのまま前進して来るとは限らないであろう。」
と言い、さらにもう一計案じます。
露布(戦勝報告の手紙。絹ぎれに書いて竿の先につけて報告した)を西の国境(北涼と西涼の国境)付近まで持ってこさせ、「浩亹はすでに陥落したので、北涼軍はこれから黄谷を進軍しようとしている」という情報を西涼に流します。
この偽情報により、北涼軍は東へ進軍しており、張掖方面には戻って来ないと信じた李歆は軍を進め北涼国内に侵入します。
これを聞いた沮渠蒙遜はすかさず伏せていた兵を引き連れ、西涼軍を急襲し、懷城の地で大破します。
李歆は周りから酒泉に退却してそこを保持することを進められますが、
「俺は母上の言葉を聞かずに敗れてしまった。あの胡賊どもを殺さずには何の面目があって母上に合わせる顔があろうか!」
とほざき、兵を統べて、蓼泉の地でもう一戦行い戦死してしまいます。
退却する道がありながら面目のために敵に突っ込み犬死にしてしまうという、まさに愚か者の所業をかまし、君主討ち死にという結果になってしまいます。
沮渠蒙遜、酒泉へ入城する
君主が討ち死にしまったことで、李歆の弟で酒泉太守の李翻や、その他の将たちも西の敦煌へ逃げます。
そして沮渠蒙遜は戦勝の勢いのまま酒泉へ入城します。
奪掠を禁止し、人民を安心させ、前述・宋繇を吏部郎中に任命し、彼に西涼の旧臣の中から有望な者を選ばせ、礼を持ってこれを登用しました。
その後息子の沮渠牧犍を酒泉太守にして治めさせます。
また、前述西涼の太后・尹氏ですが、沮渠蒙遜と面会したときも毅然とした態度を崩さず自らの死を望み、沮渠蒙遜を感服させます。
沮渠蒙遜は尹氏を赦免して、彼女の娘を息子の沮渠牧犍の妻としました。
沮渠蒙遜、敦煌を攻略し西涼を滅ぼす
西涼が敦煌を取り戻す
さて、敦煌に逃げた李翻や、その弟の敦煌太守・李恂は敦煌の町を棄て、北山に逃げます。
北山は敦煌方面の河西回廊の北に連なる山々です。
沮渠蒙遜は西涼の首都であった酒泉を手に入れたあと、空になった敦煌に索元緒という人物を敦煌太守として赴任させます。
しかしこの索元緒は殺しを好み暴政を行ったため、すぐ人望を失ってしまいます。
逆に李恂は敦煌太守だったときに優れた政治を行っていたため、敦煌の人々は密かに李恂を招き入れ索元緒を追放しました。
李恂は敦煌の人々から推され、冠軍將軍、涼州刺史となり、「永建」と改元します。これにより西涼はまだわずかながら生きながらえています。
沮渠蒙遜は息子の沮渠政德に敦煌を攻めさせますが、李恂は敦煌に立てこもり戦おうとしませんでした。
沮渠蒙遜、敦煌を水攻めで落とす
421年になると、沮渠蒙遜は西涼討伐の最後の仕上げを行おうと、2万の兵を率い敦煌を攻めます。
沮渠蒙遜は、城に籠もる李恂に対し、「水攻め」を行います。
堤を築き、水を堰き止め、敦煌の町に水を注ぎ込んだとあります。
沮渠蒙遜、水攻めは得意だったみたいで、デビューまもない頃、西城を落とすときにも水攻めを使用しています。
河西回廊は雨が少ないところだと思いますが、水攻めが可能ということは、祁連山脈からの雪解け水が相当な量があったのでしょうか。
さて、この水攻めによって、李恂は降伏を申し出ますが、沮渠蒙遜は許しません。これにより、敦煌は窮してしまい、「城を挙げて降伏し、李恂は自殺した」とあります。
その後、「沮渠蒙遜が其の城を屠る」とありますので、住民なども殺戮したかもしれません。
とは言え、これで敦煌は陥落、李恂が自殺することにより、
ここに西涼は滅亡しました。
沮渠蒙遜、ついに河西回廊を統一する
敦煌を陥落させ西涼が滅亡することにより、西域諸国の国々もみな北涼に臣と称し、朝貢をしてくるようになりました。
これにより「河西王」沮渠蒙遜は名実ともに、河西回廊の覇者となったのでした。
思えば、段業から国を奪ったあと、張掖周辺のミジンコほどに領土が減ってしまった状態から、周辺国からの侵攻を防ぎ、外交や智謀を駆使し、ここまで持ってきた手腕は見事としか言いようがありません。
ただ、沮渠蒙遜が河西回廊を手にいれたとき、中原では拓跋鮮卑の国家が猛威を振るうようになっていました。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』 (講談社現代新書、2003年7月)
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