五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑭ 混迷が続く河西のエリア3 北涼と西秦

北涼・沮渠蒙遜

こんにちは。

414年に南涼君主・禿髪傉檀が国内の叛乱を鎮圧するために出陣した隙を、西秦軍に突かれ、首都・楽都が陥落、禿髪傉檀も西秦に降伏をして、南涼が滅亡します。

沮渠蒙遜の北涼と、10年以上も毎年のように衝突してきた南涼の滅亡は、沮渠蒙遜の今後の戦略にも大きく関わってくる、河西エリアの重大事でした。

このあと、沮渠蒙遜と河西エリアはどのように動いていくのでしょうか?

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415年頃の河西エリアの状況

河西エリアの一角を占めていた、南涼の滅亡により、河西エリアの状況はどのようになったのでしょうか。

北涼
君主・沮渠蒙遜。周囲を南涼や西涼の敵国に挟まれ、張掖周辺しか支配していないまでに領土が減るなど崖っぷちまでの状態になっていましたが、超大国の後秦に朝貢しながら、最大の敵性国家・南涼からの度重なる侵攻を跳ね返しているうちに、赫連勃勃が後秦に叛乱を起こし、夏を建国。夏が暴れまわり、後秦と南涼を弱体化させました。南涼はその後も北涼を攻めてきますが、北涼は逆襲に転じることができるようになり、南涼が支配していた姑臧を奪取。じわじわ力をつけて来ました。
北涼は南涼の首都の楽都を何回か包囲するなど、南涼を滅ぼすのも時間の問題かと思われていましたが、実際南涼を滅ぼしたのは、禿髪傉檀の遠征の隙を突いた西秦でした。
沮渠蒙遜から見ると、長年の宿敵南涼は滅亡したのですが、これにより西秦と国境を接することになり、今後は西秦と干戈を交えるようになります。

後秦
かつての華北西部の超大国も、415年ころになると、夏や西秦などが独立し、さらに後秦の領土を攻撃してくるなど、その対応に追われるようになります。しかも後秦を超大国までに成長させた名君・姚興が病気になり、後秦の後継者争いも絡む一族同士の抗争が熾烈になります。そして、国土の東では東晋の英雄・劉裕が華北の後秦エリアへと手をのばして来ています。このような様々な問題のなか、かつては大きな影響力を及ぼしていた河西回廊や隴西に、ちょっかいを出すことができなくなってきます。

西秦
409年に、後秦から自立し、400年の1回目の滅亡から復活をしました。そのあと、412年に君主の乞伏乾帰が甥に殺されてしまいますが、嫡子の乞伏熾磐が跡を継ぎ、混乱を収集します。乞伏熾磐は周囲に戦争をしかけ、隴西エリアに勢力を伸ばしていきます。
414年には南涼までも滅ぼし、隴西以西で確固たる勢力を築き、沮渠蒙遜の北涼と対立するようになります。


赫連勃勃は後秦からの自立以来、本拠地を定めず、ゲリラ戦の掠奪戦法で後秦を消耗させていましたが、413年には統万城を築き、ここを首都にします。
北涼を仲間に引き入れようとし、後秦の関中を狙っています。

西涼
南涼と同盟を結び、北涼を挟み撃ちにできる体制になりながら、自分たちからはまったく北涼を攻めようとしない状態が何年も続きます。このことが沮渠蒙遜にとってはかなり有利に働きました。南涼が北涼を攻めたときに西涼が呼応していれば、おそらく現時点で北涼は滅亡していたと思います。実際にはまったく動かず、西域との交易に力をいれます。沮渠蒙遜がたまに西涼を攻めてきたときには、撃退しているのですが、結局、隣国が力をつけてくるのを傍観していたつけはそのうちまわってきます。

吐谷渾
五胡十六国時代の初期から、ずーっと青海エリアに居続けています。この最近は西秦がやたらちょっかいを出してくるので困っています。

後仇池
本拠地の天険をいかしながら、後秦に従属したり歯向かったりしつつ勢力を保持しています。

後涼と西秦が敵対する

414年に南涼が西秦に滅ぼされたことにより、北涼と西秦が国境を接するようになります。これまでは、北涼と西秦は目立って敵対することはなかったのですが、国境を接することにより415年から対立状態になります。

415年3月、北涼の沮渠蒙遜は西秦の廣武郡を攻め、陥落させます。

廣武郡は、北涼の首都・姑臧と、金城(蘭州)をつなぐ南北のルートの間にあります。

この北涼の侵攻に対し、西秦君主・乞伏熾磐は将軍・乞伏魋尼寅を派遣し、浩亹で沮渠蒙遜を攻撃しますが、沮渠蒙遜は西秦軍を撃退します。

乞伏熾磐はさらに、将軍・折斐等に1万の兵を率いさせ、勒姐嶺の地に布陣させ北涼軍に備えさせます。沮渠蒙遜はこの軍も打ち破り、将軍たちを捕らえます。

沮渠蒙遜の外交「遠交近攻」

このように、隣国となった西秦との戦いをはじめた沮渠蒙遜ですが、同時に外交も行っていきます。

東晋の益州刺史の朱齢石が沮渠蒙遜に使者を使わせたのをきっかけに、沮渠蒙遜も朱齢石に使者を送り、上表します。

「車騎将軍の劉裕様が中原を平らげるときには、その右翼になって、戎虜どもを討伐しましょうぞ」

というおべんちゃらを並べて、東晋との関係性を良くしていきます。

そして、その後、夏の赫連勃勃とも同盟を締結します。

こうして、西秦の背後の強国の夏と、盟を結ぶことにより、状況を有利にしようと動きます。

西秦が北涼に攻め込む

今度は、西秦君主の乞伏熾磐が3万の兵を率い、北涼の湟河を攻撃します。

守将の沮渠漢平は司馬の隗仁に夜襲をさせ、西秦軍を打ち破ります。

乞伏熾磐はこれにより、退却しようとしますが、沮渠漢平の配下の将が裏切り、乞伏熾磐を招き入れます。乞伏熾磐は再度攻撃をしかけ、沮渠漢平はこれにより降伏をします。

しかし、前述隗仁は壮士100人余りと南門楼に籠城し、3日間守り抜いた末に西秦軍に捕らえられます。

乞伏熾磐は最初隗仁を処刑しようとしますが、「隗仁は忠臣なので殺してはいけません」という声を取り上げ処刑せずに捕虜にします。

隗仁は西秦に5年滞在しましたが、許され、姑臧に帰ることができました。

西秦軍は湟河攻略後、乙弗窟乾を攻撃し、3千余戸の人民をさらって帰ります。

北涼と西秦、同盟を結ぶ

416年になっても、北涼と西秦は衝突をします。

1月に、西秦君主の乞伏熾磐が後秦の漒川を攻撃しました。沮渠蒙遜は石泉という地を攻めることで、この西秦の攻撃から後秦を救います。

乞伏熾磐は、この北涼からの攻撃に対処するため、沓中に至り、兵を引きます。そして2月に乞伏熾磐は乞伏曇達に兵をさずけ、北涼に攻められている石泉を救わせます。これにより、北涼軍も退却します。

このように、415年~416年にかけて戦いを続けてきた、北涼と西秦ですがこの戦いの後、同盟を結びます。

これは消耗戦に陥っていた双方にとって、メリットがある同盟であったでしょう。

北涼は、夏とも同盟を結んでいますので、西秦とも同盟することにより、領土の東が安全になり、西方面の西涼の攻略に力を注ぐことができるようになります。また、武闘派の国家・西秦と事を構えるのを続けるより、草食系でその先に敵がいない西涼を先に手にいれたほうがよい、という判断も働いたのでしょう。

また、西秦にとっても、隴西エリアのさらなる攻略ができるようになり弱っている後秦の領土を削ることに力を注ぐことができそうです。

西秦は、416年の10月に将軍・王松壽を馬頭の地に駐屯させ、後秦の上邽(今の天水市あたり)を狙います。

北涼の沮渠蒙遜も後顧の憂いがなくなり、西涼攻略に進んでいきます。

そして、翌年の417年には、華北西部を震撼させる出来事が起きます。東晋の英雄・劉裕がいよいよ関中目指して進撃を開始してくるのです。

415年~416年頃の河西エリアの勢力関係図

【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』 (講談社現代新書、2003年7月)


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