五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑫ 混迷が続く河西のエリア1 「河西王に俺はなった」

北涼・沮渠蒙遜

こんにちは。

沮渠蒙遜の北涼に攻撃をかけ続けていた南涼が、夏や後秦から攻撃を仕掛けられ弱っていき、沮渠蒙遜にもチャンスがきました。

410年の南涼の侵攻を撃退したのち、逆に姑臧を攻撃し、411年にはついに河西回廊の中心都市・姑臧を手に入れることに成功しました。

その勢いのまま、南涼の本拠地・楽都を包囲しましたが、陥落させることまではできず南涼と和睦し引き上げます。

この北涼の姑臧獲得や、後秦、南涼の弱体、西秦の再独立からの勢力拡大、夏の暴れまわる行動により、河西エリアの状況は激しく変化しはじめ、411年以降さらなる混迷を極めていきます。

410年頃の勢力地図

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南涼、北涼を再度攻撃するが、またもや逆撃される

411年に北涼が南涼から姑臧を奪ったあと、南涼は吐谷渾から攻撃を受けます。吐谷渾、祁連山脈の南に勢力を持っていますが、ちょこちょこ河西エリアの国々にちょっかいを出してきます。

その後、南涼の禿髪傉檀は、北涼にやり返そうと考え、何回目かの北涼遠征を企画します。

しかし配下からは反対されます。

「沮渠蒙遜は姑臧を手に入れ、ノリノリのウハウハになっています。今攻めてはなりませんぞ。」

しかし禿髪傉檀はこの諫言に従わず、五路から同時に北涼に攻め込みます。

番禾、苕藋まで侵攻し、5千余の集落を劫掠し引き返します。

番禾と言いますと、姑臧を過ぎ、張掖に向かう途中になりますので、かなり北涼領深くまで侵攻したと思われます。

ここで、南涼の将軍の屈右が禿髪傉檀に進言します。

「すでにこの戦いにおける利益を得ましたので、ここはすぐに撤兵すべきです。沮渠蒙遜は用兵を善くします。もし今やつらの軽兵によって攻められると、北涼軍に周囲を囲まれる状態になり、連れている人民(さらった人たち)どもが叛乱を起こすに間違いありません。これは危険な状態です。」

しかし、伊力延という部将が反論します。

「北涼のやつらは歩兵で、我らは騎兵です。ガチンコでぶつかれば我らのほうが強いはずです。今、退却をすれば弱気を示すことになります。また、せっかく奪った戦利品を棄てることになり、これは上計ではありません。」

そんなこんだでもたもたしているところに、霧が立ち込め激しい風と雨が巻き起こります。

そこへ沮渠蒙遜率いる軍が大挙来襲し、南涼軍を散々に打ち破りました。

「やや!沮渠蒙遜め、妖術まであやつるのか!?」

と言いたいところですが、ただの自然現象でしょう。

しかし、南涼軍を自領深くまで誘い入れ、天候の乱れた瞬間に奇襲で仕留める。さすがの沮渠蒙遜の用兵です。やはり防衛戦では無類の強さです。

沮渠蒙遜、楽都を包囲する

北涼軍によって撃破された禿髪傉檀は敗走し、沮渠蒙遜は追撃し、その勢いのまま南涼の首都・楽都を包囲します。

禿髪傉檀は固く城を守り、子供の禿髪染于を人質に出し講和しました。

いったい何人、北涼に人質を出すんだというくらい、毎回人質を出して危機を脱します。

411年~412年の河西エリアの興亡

さて、南涼の北涼侵攻が失敗し、北涼が力をつけていっている頃、河西エリアでは各国の興亡が繰り広げられます。

そのあたりをダイジェスト的に書いていきます。

●411年7月に西秦の君主・乞伏乾帰が乞伏熾磐を派遣し南涼を攻め、南涼は敗れ、牛や馬を奪われてしまいます。

●北涼の沮渠蒙遜が、西涼を攻撃しますが、西涼君主・李暠の引き込んで兵站が尽き退却するところを討つという戦術にやられ敗れます。沮渠蒙遜、やはり自分から攻めたときの戦績は芳しくありません。しかも自分が攻められたときに実施する作戦を李暠にやられています。

●西秦が後秦の隴西エリアを攻め勝利し3千人をさらっていきます。

●しかし、その西秦も西羌の部族(西にいる羌族?)に攻められ、枹罕の町を占拠されてしまいます。乞伏乾帰は討伐しに向かいますが、勝利できませんでした。翌年の412年に再度攻撃し、ようやく撃退することができました。

●乞伏乾帰は、412年2月に吐谷渾の部衆を攻撃しこれを降伏させます。

●西秦は4月に南涼の白土の地を攻め勝利します。

ここまで見ると、西秦、なかなか調子よい感じですが、ここで西秦国内に激震が起こります。

●412年6月に君主・乞伏乾帰が、権力奪取を狙った兄の子・乞伏公府に10余人の子たちと一緒に殺されてしまうという事件が起こります。この事件に対し、このとき苑川に駐屯しており難を逃れた乞伏熾磐がすぐさま兵を挙げ乞伏公府を討ち取り、そのまま乞伏熾磐が跡を継ぎます。

乞伏熾磐は元々、西秦の軍事の中心人物でありましたので、その後混乱なく国をまとめたようです。この事件のあと西秦は首都を枹罕に遷します。

この西秦の事件のとき、後秦、夏ともに、君主が西秦の混乱に乗じて西秦に攻め込もうとしましたが、どちらも家臣に「礼を失する」とおこられています。ちなみに夏で赫連勃勃を諌めたのは王買徳という人物で、この人物が後秦から夏に降ってきてから赫連勃勃の軍師として活躍し、夏にも戦略性が出てきます。

●412年には後仇池の楊盛が後秦に反旗を翻します。後秦は後仇池を攻撃しますが、「地勢険固」の地であるがゆえ後仇池に防がれてしまいます。

●後秦は夏も攻撃しますが、これも撃退されてしまいます。後秦の将軍は赫連勃勃に捕らえられ夏名物の穴埋めにされてしまいます。

●この412年10月に北涼の沮渠蒙遜はいよいよ攻め取った姑臧に遷都し、ここを北涼の首都にします。河西回廊の中心・姑臧に遷り、

沮渠蒙遜は河西王に即位しました。

とうとう「河西の王」と名乗るまでになった沮渠蒙遜ですが、河西エリアの混迷はまだまだ続きます。

【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』 (講談社現代新書、2003年7月)


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