五胡十六国時代 河西回廊の魔法使い・沮渠蒙遜⑩ 北涼 vs 南涼2 夏が建国され沮渠蒙遜に追い風が吹き始める

北涼・沮渠蒙遜

こんにちは。

403年に北涼が後秦に降伏したあと、姑臧周辺は、後秦、北涼、南涼の勢力が駆け引きを交えたやりとりを繰り広げます。

403年頃の勢力地図

406年から、姑臧エリアの南と北に勢力を張る、南涼と北涼が戦いをはじめます。(南涼は形式的には後秦の服属下にある)

そして、406年に南涼は後秦から姑臧に駐屯することを認められ、南涼君主・禿髪傉檀は後秦服属下ながら、念願の姑臧獲得に成功します。

北涼の沮渠蒙遜は、禿髪傉檀に一歩先を行かれてしまいますが、このあと華北西部の勢力地図は大きく変わりはじめ、それが沮渠蒙遜にも追い風として働きます。

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南涼と西涼が同盟を結ぶ

さて、沮渠蒙遜に追い風が吹く前に、さらにもう一回逆風が吹きます。

406年8月南涼の禿髪傉檀は、西涼と友好関係を結ぼうとし、西涼君主・李暠もこの申し出を受け、南涼と西涼が同盟を結びます。

これによって、西涼と南涼に間にある北涼は、見事なまでに挟み撃ち状態になります。

沮渠蒙遜的にはかなりまずい状態ですが、ここで沮渠蒙遜は、すかさず西涼への侵攻を行います。

西涼の酒泉へ向かい、安珍の地まで進みます。

安珍は漢時代の安彌県になり、酒泉のすぐ南東にあたります。

首都近くまで攻め込まれてしまった李暠ですが、ここはかたく守りを固めることにより防ぎます。沮渠蒙遜は軍を引きました。

沮渠蒙遜としては、挟み撃ちされる危機的状態になってしまったのですが、南涼と西涼を比べたときに、積極性に乏しい西涼に一撃を加えることで、西涼のやる気を失わせる目的があったのかもしれません。

このあと、西涼ががっつり南涼と挟撃を加えてくることはほぼないようです。

赫連勃勃、半グレ集団「夏」を建国

407年になると、沮渠蒙遜たち河西の国々が頭を下げ形式上は舎弟になっていた華北西部の超大国・後秦国内で大事件が起こります。

後秦に服属して朔方に駐屯していた、匈奴鉄佛部・劉勃勃(赫連勃勃)が6月に自立し、高平の町を襲い、

「大夏」を国号とし自立してしまいます。

劉勃勃は、朔方で割拠していた鉄佛部の首長・劉衛辰の息子で、北魏によって鉄佛部が攻撃殲滅されたあと、後秦に逃れ、後秦君主・姚興から気に入られ、助けられます。

しかも、姚興は鮮卑や雑夷の2万余落をあたえ、鉄佛部の故地、朔方に駐屯することを認めます。

五胡十六国時代でも名君の一人に称えられる姚興の素晴らしい恩情措置ですが、劉勃勃のクソガキはいとも簡単にこの恩に仇で返します。

受けた恩には仇で返す。五胡十六国だ!!

と言わんばかりのクソ所業ですが、この夏の建国がこの後の沮渠蒙遜たち河西の勢力にも大きな影響を与えていきます。

407年頃の勢力地図

407年 南涼、北涼に攻め込む

乞伏熾磐、南涼からの裏切りの誘いを後秦にちくる

407年、南涼の禿髪傉檀は後秦に反旗を翻そうとし、同じく後秦の舎弟になっていた西秦の乞伏熾磐に使者を送り、一緒に裏切ろうぜ、と誘います。

しかし、乞伏熾磐は後秦にちくり、南涼からの使者を斬り、後秦に送ってしまいます。

たしか、乞伏熾磐は禿髪傉檀に命を救われたことがあるのですが、ここも

受けた恩には仇で返します。

このことがのちの後秦の南涼侵攻につながります。

南涼、北涼へ攻め込む

さて、9月になると禿髪傉檀は5万の兵を率いて、北涼に侵攻します。

沮渠蒙遜、攻められたときの戦いは激つよです。

張掖の東にある均石という地で、南涼軍を大破します。沮渠蒙遜はそのまま進軍し、日勒で西郡太守・楊統を攻め降伏させます。

日勒はこの時代西郡の郡治があるところなので、北涼いつのまにか西郡も奪われていたのですね。

まあ、今回で西郡も取り返しました。

半グレ集団「夏」のゲリラ的カツアゲと逆恨みのカチコミ

さて、後秦から自立した夏の劉勃勃(赫連勃勃)ですが、この人物は相当なイケメンだったらしいのですが、その反面、性質は残虐そのものだったようです。

後秦へのカツアゲ行為

このイケメン残虐クソ野郎の劉勃勃(赫連勃勃)ですが、後秦から自立したあと、本拠地を定めることなく、後秦との境のエリアを掠奪して回るという、「ゲリラ的カツアゲ」をかましていきます。このカツアゲ行為により、後秦の嶺北エリアの諸城は昼間も門を開けることができない状態になったようです。

劉勃勃いわく、

「これを続けていれば10年も立たず嶺北と河東は俺のものだぜ。あとは姚興が死ぬのを待てば、残りは雑魚の跡継ぎしかいないから、そいつらつぶして長安を取るぜ。」

と、後秦にしたら10年もこのゲリラ戦法を続けられるのかと、気が遠くなる思いですが、事実この劉勃勃の攻撃によって後秦の国力はじわじわ削られていきます。

南涼への逆恨みからのカチコミ

さらに、イケメン残虐クソ野郎の劉勃勃(赫連勃勃)は、南涼の禿髪傉檀の娘に求婚をしますが、禿髪傉檀から断られてしまいます。

これにブチ切れた劉勃勃は、11月に2万騎を率いて南涼にカチコミをかけます。

支陽という金城のすぐ北にある町を攻撃し、1万以上の人を殺し、2万7千人をさらい、牛・馬・羊数十万頭を奪い去っていきました。

禿髪傉檀もすぐ追撃をしますが、劉勃勃は南涼を陽武の下峡におびき寄せ道を塞ぎ、禿髪傉檀を逆激し大破しました。

この戦いにより南涼軍は万を超える死傷者を出し、配下の名臣・勇将にも死者16~17人が出るいう大打撃を受けました。

ちなみにこのとき劉勃勃は、禿髪傉檀が逃げ込んだ山を死体を積み重ねて封じて、これを「髑髏台」と名前をつけるなどのドン引きするようなことをやっています。

407年頃の勢力地図

夏の動きが沮渠蒙遜に有利に働く

夏との一戦による南涼のダメージは大きかったでしょう。娘への求婚を断っただけで、攻められボコボコにされてしまった禿髪傉檀に同情を禁じえません。

ただ、この劉勃勃の後秦と南涼に対する傍若無人な行いが沮渠蒙遜にとっては追い風になります。

一番の競合である南涼を、自分たちが何もせずに壊滅的な打撃を与えてくれ、河西の超大国・後秦も、夏のゲリラ戦法により国力をすり減らし、河西回廊へちょっかいを出すどころではなくなってしまうという、沮渠蒙遜にとっては勃勃万歳と叫びたくなるほどの働きを見せてくれます。

このあとも沮渠蒙遜にとっては、行幸とも言うべき周辺勢力の動きがあり、

沮渠蒙遜耐えただけあったぞ。

と言いたくなるような展開になっていきます。

【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』 (講談社現代新書、2003年7月)


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