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五胡十六国時代、河西回廊の周辺では、後涼が反乱の連続で混乱に陥っていき、沮渠蒙遜たちの北涼が勢力を広げていきます。
北涼は、398年沮渠蒙遜の活躍で西郡という河西回廊東部の要衝を抑えることに成功し、そのあと、張掖・晋昌・敦煌と、武威郡(姑臧のあるエリア)以外の河西回廊内の領土を獲得していきます。
このまま、河西回廊統一も近いのではないかと思える調子の良さですが、そうは問屋がおろしません。
北涼勢力下の西部で異変が起こります。
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399年河西の動き
北涼が勢力をひろげつつあったとき、黄河の西エリアでは、さまざまな動きがあります。
南涼が活発化
南涼では、禿髪烏孤の元、勢力がのびていきます。
湟水流域の楽都に都をうつし、湟水周辺を中心に勢力を広げようとします。そして、後涼、西秦、北涼の隴右・河西に勢力をはる3勢力のうち、弱っている後涼に狙いを定め、姑臧攻略を計画していきます。
北涼の段業、涼王に即位
また、北涼では、張掖獲得のあと、都を張掖に遷し、君主の段業が涼王を名乗り、天璽に改元をします。
ちなみに沮渠蒙遜たちの「涼」が「北涼」と呼ばれるのは、河西四郡の中でも張掖は北にあるからだと資治通鑑の胡三省注には書かれております。地図を見ると、どう見ても張掖は河西四郡の中では南のほうだろ、と突っ込みたくなりますが、ここはあえてスルーします。
後涼の北涼攻撃
河西回廊で勢力を広げていく北涼を、後涼も黙ってみていたわけではありません。
399年4月後涼の呂纂が北涼を攻撃してきます。
北涼の君主・段業はこれはまずいと、南涼に援軍を求めます。
のちにバチバチにやりあうことになる北涼と南涼ですが、この時点は間に後涼という共通の敵がいますので、けっこう協力しています。
禿髪烏孤は、禿髪利鹿弧と楊軌を援軍に向かわせます。
援軍が来ることになって北涼君主・段業も出陣しようとしますが、沮渠蒙遜が諌めます。
「楊軌は率いる鮮卑兵の強さを頼み、さらに我らの隙も伺おうとしています。後涼軍は深入りをして、すでに死地に入り込んでおり、敵ではありません。我らは今戦わないという選択をすれば泰山がごとく安心でありますが、戦ってしまうと積み重ねた卵のように非常に危険であります。(後涼と南涼で戦わせておいて我らは高みの見物でいいのです。)」
段業もこの沮渠蒙遜の意見に従い、兵を出さず戦闘を控えました。そうこうしてるうちに後涼軍は撤収していきました。
沮渠蒙遜、参謀としても優れた素質をもっていたようです。北涼は兵を損なうことなく後涼軍を引かせることに成功しました。
南涼、禿髪烏孤の死
さて、南涼のほうですが、姑臧を攻略しようと張り切っていた君主・禿髪烏孤が酔っ払って落馬をして骨折してしまいます。当初は「呂光親子を喜ばせたものよ。わっはっは。」と笑っていたのですが、容態が急変しあっけなく死んでしまいます。これにより南涼の姑臧攻略は白紙に戻り、南涼君主の座は弟の禿髪利鹿弧が継ぐことになりました。
後涼、呂光の死
さて、399年の締めくくりは、後涼の呂光の死になります。
かつて西域を舞台に暴れた勇将も年には勝てず、399年12月太子の呂紹を跡継ぎにし、その兄弟、呂纂、呂弘に呂紹をサポートをするように託し没します。
サポートをお願いされた呂纂、呂弘ですが、なんと呂紹即位4日目で、呂纂が呂紹に迫り自殺させ呂纂が君主になります。
こいつら兄弟は呂光からサポートをお願いされたとき泣きながら応えていましたが、なんという茶番劇でしょう。この一族はこのあとも茶番劇を繰り広げながら滅亡へ向かっていきます。
このような動きがありながら、399年は終わり400年が幕を開けます。
そして400年は北涼国内で異変が起こります。
400年の河西回廊
北涼に李暠という人物がおりました。文学をよくし、非常に評判のよい人物だったそうです。
言い伝えでは前漢の将軍・李広の子孫と言われておりました。
北涼は後涼から敦煌を獲得したあと、後涼の敦煌太守の孟敏を沙州刺史としてそのまま敦煌を収めさせ李暠を效穀県令としてその配下に置きました。
孟敏はその後まもなく没し、漢人豪族たちの推薦を受け李暠が敦煌太守になりました。
そして400年11月北涼の晋昌太守・唐瑤が反乱を起こし、李暠を涼公に推します。
これを受けた李暠は敦煌で自立し、
ここに西涼が建国されました。
西涼は東へ進行し、北涼支配下の涼興に攻撃をしかけました。玉門以西の諸城はみな西涼に降伏したようです。
この玉門は玉門関のことではなく、酒泉郡の西部にある玉門県のことかと思われます。
このあと、北涼の酒泉太守・王徳が反乱を起こし河州刺史を名乗りますが、沮渠蒙遜が反乱鎮圧に派遣され、王徳を打ち破ります。王徳は城に火を放って西涼に逃亡しようとしますが、沮渠蒙遜は沙頭の地で追いつき、王徳軍を大破しました。
とりあえずこの時点では酒泉までは失わずにすんだようです。
北涼、東西の勢力に挟まれる
西郡より西の河西回廊を支配していた北涼ですが、西涼の独立によって河西回廊西部エリアの支配地を失うとともに、西に西涼という独立勢力ができることによって、東の勢力との間に挟み撃ちにあってしまう状況が生まれてきます。
一気に危急存亡の秋を迎えそうになりますが、その状況で北涼支配層の中でも動きがあります。
沮渠蒙遜の鮮やかなクーデターが発生します。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』 (講談社現代新書、2003年7月)
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