こんにちは。
前回の391年~400年は、東部編と西部編に分けて書きました。
東部では、後燕が翟魏と西燕を滅ぼし、華北東部を制圧しますが、その後、参合陂の戦いで北魏に敗れ、慕容垂がその後一撃食らわしますが、その慕容垂が病没、北魏が後燕領内に侵攻、後燕は領土が割れてしまいます。南では慕容垂の弟・慕容徳が南燕を建国し、後燕は、遼東・遼西を支配するのみの国家になってしまいます。
北魏は、旧後燕領の并州と河北も支配下に入れ大国の道を進みはじめます。
一方西部では、前秦を滅ぼした後秦が関中を制覇、その後、北魏の隙をつき、オルドスも手に入れ、河南の洛陽も東晋から奪い去ります。
河西回廊では、後涼から南涼と北涼が独立し、さらに北涼から西涼が独立します。
西秦は、後秦に服属しいったん滅びてしまいます。
このようないろんな興亡のあと401年からの歴史がはじまります。
以下、五胡十六国時代後期に登場するプレイヤー(国)たちです。
【関東エリア】
西燕、後燕、南燕、北燕、翟魏
【北の塞外エリア】
夏、北魏
【関中エリア】
前秦、後秦
【西の果てエリア】
西秦、後涼、南涼、北涼、西涼、後仇池、吐谷渾
【その他】
東晋、後蜀(譙蜀)
※滅びた国は塗りつぶしています。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)
武則天 -The Empress- BOX1 (コンプリート・シンプルDVD-BOX5,000円シリーズ) (期間限定生産)
五胡十六国時代の勢力変遷の地図を1冊にまとめた
「五胡十六国時代勢力地図集」は、
こちらから注文できます。
↓↓↓
401年~410年
今までは、エリアを関東、関中、北の塞外、西のはて、などの分け方をしてきましたが、時代も進み大きな領土を持つ国が増えてきて、上記エリアを超えてのそれぞれの国の動きが多くなって来ましたので、少し分け方を変えます。
華北東部、華北西部、河西回廊まわり
で分けようと思います。
南からの東晋の動きもからんで来ます。
今回は華北東部の動きになります。
華北東部
まずは、華北東部ですが、ここは北魏が南侵してきて、并州、河北を制圧し、残りを後燕(遼東・遼西エリア)と南燕(山東エリア)がわけあう状態です。
後燕の滅亡
後燕は北魏の侵攻により、華北の大部分の領地を失い、遼西の龍城に遷都を余儀なくされました。398年に君主・慕容宝が舅の蘭汗によって殺され、その後慕容宝の庶長子の慕容盛が蘭汗を殺し、後燕を取り戻します。
しかしその慕容盛も401年には禁軍の反乱によって殺され、その叔父である慕容煕が迎えられ天王に即位し後燕を継ぎます。
しかし小国になってしまった後燕にもはや力はありません。
そのような状態でも周辺の高句麗や契丹に遠征をしてさらに国力を減らし、406年には遼東に高句麗が進出してきて、領土が龍城周辺のみになってしまいました。
そして、407年に慕容煕が漢人の将軍・馮跋に殺され後燕は滅亡します。
北燕の建国
407年7月の慕容煕殺害のあと、馮跋は慕容雲という人物を天王にして、実権は自分で握ります。
ちなみに慕容雲は高句麗人の末裔らしく、慕容という姓ですが、慕容鮮卑の血筋ではありませんでした。
即位したあと姓を「高」に変え、高雲と名乗りを変えています。
ここに北燕が建国されました。
北燕は新しく建国されたとは言え、小国になってた後燕の領地をそのまま継承したので、やはり小国でした。
高雲が高句麗人ですので、高句麗との関係は改善しましたが、逆方向の大国北魏との関係は悪化していきました。さらに遼西にいた幽州刺史の慕容懿という人物が北魏に下ったりしています。
そうこうしているうちに、今度は高雲が寵臣たちによって殺されてしまうという踏んだり蹴ったりの状態になります。
その混乱を馮跋みずから鎮定し、そのまま馮跋が天王になり北燕を引き継ぎます。
隣に北魏がいるし、こんなの北燕あっというまに滅ばされてしまうじゃんと思いますが、意外と粘り腰を見せ、北燕は小国ながらこのあと30年近く存続します。
南燕
さて、北魏に国を真っ二つにされたあと、南のほうの後燕勢力は慕容徳がまとめ、滑台に移り398年1月に燕王を(勝手に)名乗り、南燕を建国しました。
後燕まだ普通にありますので、独立しちゃだめじゃんと思いますが、この混乱状態ではとくに突っ込まれなかったのか、そのまま進みます。
南燕も遼東・遼西に逃げた後燕と同じく鼻くそのような小さい国でしたが、小さいながら踏ん張ります。
東晋や北魏から圧力をかけられますが凌ぎ、東に移動、399年8月に山東エリアの広固を都とします。
そして400年1月に慕容徳は皇帝に即位します。
慕容徳は慕容儁、慕容恪、慕容垂の弟で、優秀な三代目B-SOUL BROTHERSの一人です。
慕容垂の下で、「枋頭の戦い」や後燕建国に活躍しました。
南燕建国後も手腕を発揮します。
戸籍整備などを行い、国力を増大させ、東晋が桓玄の簒奪などで混乱し南燕に亡命する人々を受け入れたりします。
慕容徳はそのような国力アップと東晋の混乱を見て、東晋への侵攻を計画しますが、病で中止、405年8月に死去してしまいました。
これで南燕の短いピークは終わります。
南燕は慕容徳の兄、慕容納の子の慕容超が即位します。
南燕はその後国内が混乱し、東晋で桓玄を打ち破り実権を握った英雄・劉裕が南燕侵攻を開始します。409年6月に広固が包囲され、410年2月に広固は陥落、慕容超は捕縛され東晋に送られ処刑されました。
ここに、南燕は滅亡しました。
燕の国の失墜
こうして、401年~410年の華北東部では、後燕と南燕という2つの燕国が滅亡し、遼西エリアに残った北燕も、支配者が慕容鮮卑でなくなるという変動がありました。
4世紀の100年に渡り、中国史を彩った慕容鮮卑は、5世紀のはじめには地に落ち、歴史からほぼ消えてしまいました。
一応西に吐谷渾という国がありますが・・
五胡十六国時代の勢力変遷の地図を1冊にまとめた
「五胡十六国時代勢力地図集」は、
こちらから注文できます。
↓↓↓
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
コメント