五胡十六国時代 後期(淝水の戦い後)の流れを簡単に見てみる 「時代はまさにカオスだ(´Д`)」 ②淝水の戦い後の群雄割拠

五胡十六国の流れ

こんにちは。

今回から五胡十六国時代後期の具体的な動きを書き始めます。

以下、登場するプレイヤー(国)たちです。

【関東エリア】
西燕、後燕、南燕、北燕、
翟魏

【北の塞外エリア】
夏、北魏

【関中エリア】
前秦、後秦

【西の果てエリア】
西秦、後涼、南涼、北涼、西涼、後仇池、吐谷渾

【その他】
東晋、後蜀(譙蜀)

五胡十六国時代のおおまかな流れはこちら(前期中心)

五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら


五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)

プロローグ:淝水の戦いの大敗からの退却

383年華北を統一し、蜀の大部分も手に入れていた前秦の英主・苻堅様は、自称100万を超える大軍団を率いて、東晋を滅ぼすべく出陣し、淮水近くの淝水で、7万の東晋軍に木っ端微塵に打ち破られ、壊滅してしまいます。これが五胡十六国時代では一番名高い「淝水の戦い」です。

淝水の戦い前の勢力図

破れた前秦軍は散り散りに退却をはじめ、苻堅様も矢傷を追った状態で、わずか千騎で退却します。途中、別のところを攻撃していたため、無傷の軍を有していた慕容垂の軍に収容され、洛陽まで退却していきまいた。

途中、慕容垂の部下たちは、

「今がチャンスです。苻堅ぶっ殺して独立してしまいましょうぜ」

と何度も進言しますが、基本いい子ちゃんぶりっ子の慕容垂は、

「ならん。かれは今まで、儂の命が危ないときに何度も助けてくれた。儂はまだその恩に報いておらぬ。秦がこのまま滅びるなら殺す手はいくらでもあるが、そのときでも儂は、函谷関より西には手をつけぬ。儂らは関東で燕を復活させるのじゃ。」

と、苻堅様を無事退却させました。

けっこう人徳の男ぽいことを言っているのですが、ここで、三国志演義の劉備のように「この人の人徳すげー」とならないのが、慕容垂です。

苻堅様助けたこのあとも、前秦の臣たちからとことん危険人物扱いされてしまいます。

正直かわいそうになってきました

さて、洛陽で散っていた兵が集まり、とりあえず10万まで回復しました。

ここから、慕容垂が独立に向かって動き始めるところから、五胡十六国時代後期が幕を開けます。

383年~385年:後燕、西燕、後秦、西秦、後涼、後仇池が建国

関東エリア

この関東エリア(だいたい山西省から東のエリア)では、もともと前燕の支配地だったこともあり、慕容や燕の後継がにょきにょき建国されます。

あとで、北からバーサーカーたち(北魏)が来襲してきます。

慕容垂【後燕建国】

慕容垂は、洛陽に苻堅を送ったあと、澠池という地についたときに、東の方の混乱を収めたいと苻堅様に申し出て許されます。

このときも、前秦の臣から、さんざん

「あいつ裏切りますよ」

と苻堅様に讒言(諫言)され、挙句の果てには、前秦の臣から刺客まで放たれます。

慕容垂は、そんなこんなありながらも鄴までたどり着きますが、鄴の守将・苻丕からも疑われ、河南で挙兵した丁零の翟斌の討伐を命じられ老兵2千だけをもたされ、洛陽に向かうことになります。

慕容垂はお目付け役の苻飛竜を始末し、洛陽で翟斌も逆に味方につけ、3万の兵を擁するようになります。

慕容垂は洛陽を拠点にしても、いろいろなところから攻められて守りにくいと考え、鄴を拠点にしようと思い、鄴へ向かおうとします。

そして、384年1月に滎陽で燕王を自称し、自立します。

ここに後燕が建国されました。

その後、鄴にいる苻丕とやりあいながら、河北で勢力を広げていきます。

翟魏の建国

淝水の戦いのあと、丁零族の翟斌は、383年12月に河南で前秦に対し反乱を起こし、洛陽を守る前秦の豫州牧・平原公の苻暉を攻めます。

ここで、苻丕に派遣されてきた慕容垂に降伏し、以後は後燕に服属します。しかし、慕容垂が鄴を攻めているときに翟斌は苻丕に内通し、それが発覚し、慕容垂に処断されてしまいます。

翟斌の子、翟遼は逃げて滎陽までたどり着き、そこで勢力拡大を目指します。

北の塞外エリア

オルドスや山西省北部より北のエリアです。

北魏

北魏の前身である代国が前秦にほろばされたあと、かつての代王・拓跋什翼犍の孫、拓跋珪は母とともに亡命生活を続けています。

関中エリア

長安(今の西安)がある渭水盆地周辺です。前秦の本拠地で、新しく建てられた後秦や西燕とバチバチの戦闘が行われます。あとで、ここも北からバーサーカー(夏)が攻めてきます。

前秦・西燕・後秦の三つ巴の争い

淝水の戦い敗退後、苻堅様は12月に長安に戻りました。

この敗報が全国に知れ渡ると、いたるところで各部族が反乱を起こしていきます。

関中エリアでは、前燕最後の君主・慕容暐の弟、慕容泓と慕容沖が動きます。

384年3月慕容泓は関東へ行き、数千人の鮮卑人を集め、関中に帰り、華陰で斉北王として自立します。基本姿勢としては、1月に独立した慕容垂の後燕に従う形をとります。

このとき、前秦は慕容泓討伐の軍を出し、慕容泓は東へ逃走しようとしますが、前秦軍の将軍・苻叡は羌族・姚萇の諌めも聞かず攻め、慕容泓に敗れ、苻叡は戦死してしまいます。

姚萇は、苻堅様に敗戦の謝罪の使者を送りますが、苻堅様は敗戦に怒り狂い、なんとその使者を殺してしまいます。余裕がなくなっているでしょうが、この頃には、「英主」の面影は見られなくなっています。

さて、使者が殺されてしまったことを知った、姚萇は、これは自分も殺されてしまうと恐れ、馬牧という地に逃れ、そこで羌族たちに推され、4月に自立します。

これが後秦の建国です。

一方、慕容沖は河東(山西省平陽あたり)で2万人を集め挙兵しましたが、前秦軍に敗れてしまったので、慕容泓の軍に合流します。

これにより慕容泓は10万人の兵力を擁するようになります。このとき、長安に先の前燕皇帝・慕容暐が健在でしたが、慕容暐は慕容泓に燕の復活を託したため、4月に燕興と建元します。

これが西燕の建国です。

西燕はこのあと、東の并州に勢力を移すのですが、建国は関中で成されました。

さて後秦は5月から北地を拠点として関中で勢力を広げようとします。

一方西燕は、なんと慕容泓が家臣に殺されてしまい、慕容沖が勢力を継承します。

このような関中内での西燕と後秦の割拠に前秦も黙っていたわけではありません。

ここから、関中内で3勢力のごちゃごちゃの争いになります。

6月に苻堅様が北地の姚萇を攻め、壊滅寸前まで追い込むも、倒しきれず逆襲されます。

7月には慕容沖が長安を攻めます。迎え撃つ前秦軍は敗北を重ね、10月慕容沖は長安に迫ります。

このあと、先の前燕皇帝・慕容暐は12月慕容沖に呼応しようとし、長安城内で苻堅様に対して反乱を起こそうとしますが、発覚、慕容暐は城内の鮮卑もろとも殺されてしまいます。

これを聞いた慕容沖は長安郊外の阿房で皇帝に即位します。

このあと、苻堅様と慕容沖はバチバチの戦いを繰り広げますが、5月に苻堅様が、長安を脱出し、五将山に逃れます。

長安は慕容沖に落とされ、大規模な略奪により荒廃します。

苻堅様は7月に姚萇によって捕縛され、

8月に姚萇から禅譲を求められますが拒否し殺されてしまいます。

善政を行い、一時は、華北を統一して天下に手がとどきそうなところまでいった、五胡十六国時代の英主・苻堅様でしたが、最後は悲しい最後を迎えてしまいました。

前秦の鄴の守将・苻丕は、後燕の慕容垂から攻められ善戦しましたが、とうとう鄴から脱出しました。西へ向かっていた途中の平陽で、苻堅様の死を聞き、ここで苻堅様の跡を継ぎ、即位しました。

このあと、関中は、西燕が母体の鮮卑族が東へ帰りたがり内輪もめ状態になり、後秦が勢力を拡大していくも、前秦の残党が粘り強く対抗するなど、まだまだ混乱が続きます。

西の果てエリア

隴西より西で、河西回廊から西域までです。(今の地名でいくと、蘭州あたりから、武威~酒泉~敦煌とかです。)

西秦

鮮卑、乞伏部は383年頃には乞伏国仁(きつぶつこくじん)に率いられていました。

383年の淝水の戦いのときには、乞伏国仁も出陣する予定でしたが、隴西で叔父の乞伏歩頽が反乱を起こしたため、乞伏国仁はその鎮圧に向かわさせられました。

しかし、乞伏国仁は淝水の戦いでの前秦の敗北を知ると、隴西にとどまり諸部を収集し、10万の民衆を擁するようになりました。

そして、385年苻堅様が殺されたことを知ると、9月に乞伏国仁は、大単于・秦河二州牧を自称し、勇士城(甘粛省蘭州市楡中県)に都を置き自立します。

これが西秦の建国です。

後涼

氐族の呂光は383年に苻堅様から西域遠征を命じられ、384年4月には亀茲まで進出しました。亀茲はタリム盆地にあり、敦煌から見ても相当西に位置します。ここまで来て東への帰還を選択します。

その後、東帰の途中、385年9月になって、苻堅様の淝水の戦いの敗北を知り、敵対する勢力を破りながら、玉門、酒泉と東へ戻り、姑臧に入城して、ここで涼州刺史・護羌校尉を名乗り自立します。

この時点では、建国まで行ってませんが、こののち北涼となります。

後仇池

楊定は、淝水の戦い以後も苻堅様を奉じていましたが、385年8月に苻堅様が殺されると、11月に歴城(甘粛省西和県)に移動して、氐族と漢族を集め自立します。

これが後仇池の建国です。

後仇池は、山の中の少勢力ですが、その地形的有利でこの後も粘り強く生き残っていきます。

その他エリア

淝水の戦い前の東晋と益州(四川省)のエリアです。

東晋

淝水の戦いで勝利し、滅亡の危機を逃れた東晋ですが、384年に入ると当然のように失地回復を求め、北伐を実行していきます。

384年1月に劉牢之が譙城を陥落させ、桓沖が上庸郡太守・郭宝を派遣し、魏興・上庸・新城の三郡を手に入れます。この三郡は荊州の北西エリアになり、最北西の魏興郡は長安にすぐ手が届く位置になります。

また楊佺期は成固まで進出し、前秦軍を破ります。

4月に襄陽を取り、5月には豊陽が東晋に降伏します。そして、梁州刺史・楊亮が5万の兵で益州を攻めます。

7月魯陽が東晋の手に渡ります。そして洛陽にも入城します。

8月には、謝安が謝玄に兵を率いさせ北伐させ、彭城(徐州)を奪還します。

9月謝玄は劉牢之を派遣し、鄄城を手に入れ、河南を占領していきました。

また10月には、青州(山東省あたり)も手に入れます。

河北へも侵攻し、黎陽も手に入れます。

このあと、河北では鄴を巡り、前秦と東晋が手を結び、東晋の劉牢之が慕容垂に囲まれている鄴へ救援に向かうなどし、385年になると、慕容垂vs苻丕・劉牢之のバトルが勃発します。

4月には益州を取り戻します。

このように、東晋は、384年から385年にかけて、河南や益州を前秦から取り戻し、大きく勢力を北と西に伸長させます。

ここまでが、淝水の戦い後、383年~385年にかけての各勢力の動きになります。

前秦の衰退、各勢力の割拠、東晋の北と西への勢力復活がその動きになります。

次回は、386年以降の各勢力の興亡になります。

とりあえずややこしいです。

383年淝水の戦い後から385年頃までの、各勢力独立

【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』

 

その他、五胡十六国時代・魏晋南北朝時代が概説的に読める書籍たち↓↓


中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

中国文明の歴史〈4〉分裂の時代―魏晋南北朝 (中公文庫)


大唐帝国-中国の中世 (中公文庫プレミアム)


隋唐世界帝国の形成 (講談社学術文庫)

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました