五胡十六国時代 前燕の落日㊳ 四代目慕容暐 ~前燕滅亡への道~ 前秦の前燕への侵攻:前燕の都・鄴の陥落

中国史

こんにちは。

潞川の戦いで30万の前燕軍を破り、返す刀で長駆、華北平原に進出、前燕の都・鄴を囲んだ王猛率いる前秦軍ですが、ここまでの戦況を前秦皇帝・苻堅様に報告します。

苻堅様は、自軍の圧勝劇と、前燕を滅亡寸前まで追い込んでいる状況にウキウキアゲアゲになり、「願わくは親征はやめてほしい」という戦前の王猛のお願いもまったく頭から消え、ヒアウィーゴー!と10万の軍を率いて安陽経由で南から鄴包囲戦に加わります。

安陽では駆けつけた王猛から、その「親征癖」を怒られるのですが、反省する様子はありません。苻堅様が懲りるときには前秦は・・・ですが、これは13年先の話です。

真打ちが登場したところで、鄴攻防戦と、前燕滅亡への流れは一気に動いていきます。

赤枠を拡大した地図が下記

苻堅様、安陽に到着

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慕容桓の龍城逃走

前燕の宜都王・慕容桓は万の兵を率いて沙亭という地に駐屯しており、慕容評の後詰としてひかえていましたが、慕容評が「潞川の戦い」で大敗したと聞くと、兵を内黄という場所に引きました。引くと書いてあるのですが、内黄は沙亭より西に進んだ場所にありますので、この行軍の意図はよくわかりません。

その後、前秦の鄧羌が信都を攻めたため、慕容桓は5千の兵を率いて、龍城に逃げていきました。

沙亭から進んで、太行山脈あたりまで行ったところで、慕容評の敗退を聞き、内黄まで退却したあと、信都まで退却したところを鄧羌に攻撃され、残兵5千で龍城に逃げていったのではないかと思いますが、資治通鑑の記載だけではよくわかりませんでした。慕容桓が前燕の残党になったという前置きではあるでしょう。

華北の大都市・鄴

さて、前燕の首都で、目下包囲中の鄴ですが、五胡十六国時代前後では、洛陽、長安と並んで、華北の三大都市として極上のプレゼンスを放つ都市です。

鄴の歴史

鄴は、春秋時代に五覇の一人、斉の桓公が城塞都市として建設したところからはじまります。

その後戦国時代の魏の文侯の時代(在位:紀元前445年 – 紀元前396年)に、西門豹が、十二渠を築いて灌漑をして鄴周辺を肥沃な土地にしました。このときの逸話で、土地に古来から残る「河伯娶婦」という悪しき習慣で苦しんでいた人民たちを、西門豹が救ったという話が「史記」に載っています。習慣の履行で私腹を肥やしていた、鄴県の三老や属吏、巫女どもを根こそぎ河へ投げ込んで沈めたというあれです。

また、漫画キングダムでは、秦が天下統一の足がかりとすべく趙から鄴を奪おうとする戦争が描かれています。キングダムでも鄴は首都・邯鄲に次ぐ趙の重要都市として難攻不落の大都市として扱われております。


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その後、後漢末から河北エリア南部の中心になりはじめ、「三國志」で有名な袁紹がこの鄴を本拠にしました。

そして、曹操が袁氏を倒すと、204年に鄴を本拠地にし、曹操勢力の事実上の首都になりました。

その後、五胡十六国時代の後趙・冉魏・前燕、南北朝時代の東魏・北斉が鄴を首都としました。

農業、交通、軍事面での優位性

この鄴は、農業、交通、軍事の面で首都となるにふさわしい都城だったようです。

農業面では、太行山脈東麓から流れ出す河川で扇状地が作られ、土壌が肥沃であり、さらに前述、戦国時代の西門豹や曹操が灌漑を行って農業生産が優れた土地だったようです。

交通面では曹操が鄴獲得後、もともと発達していた水運交通を、漕運を通したりの水利事業を行い、交通網が発達したようです。

軍事面では、鄴は位置的に、河南平原の北端に近く、北方の民族が中原を狙うときの拠点にもなりやすい位置にありました。また洛陽にも遠くない位置にあり、鄴を取ればイコール洛陽も狙うことができました。そして、中国の南北に勢力が対立しているときは、南方の勢力より離れているので防御によい場所でした。さらに大平原の中にあるので、多くの兵を養えるという理由もあったようです。

鄴は中原を制した王朝が拠点とするのにちょうどいい位置にあり、袁紹勢力、曹操時代の魏、後趙、冉魏、前燕、東魏、北斉と、華北統一時の後趙以外は、基本華北東部を制圧した勢力が首都としています。

前燕の地図を見ると、ちょうど勢力真ん中あたりに鄴があるのがわかります。

逆に、華北東部以上に勢力を広げるとなると、逆に鄴では位置的に東北によりすぎ、都合が悪くなるのではないかと思われます。

また、戦国時代の趙の都であり、後漢時代も重要な都市であった邯鄲ではなく、鄴を各勢力が都にしたのは、邯鄲はアルカリ性が強い土壌で農業生産力が低い土地であったとか、漕運を使った流通では、漳水という大河川に通ずる鄴にかなわなかったという理由があるようです。

以上の鄴についてことは、
木村 佐知子『曹操期の鄴建都の意義』法政史学 (85), 1-22, 2016-03
から引用、参考にしました。

このように、この時代華北東部を押さえる王朝の首都として、輝きを放っていた前燕の都・鄴ですが、前秦軍の前に陥落のときを迎えます。

鄴の陥落

存在感、都城の大きさともに巨大であった鄴ですが、陥落のときはあっけなく訪れます。

燕の散騎侍郎・余蔚という人物がいました。

彼は、夫余という国の太子で、夫余は現在の中国でいうと東北地方あたりに存在していた民族・国です。慕容皝時代に前燕に攻められ、王含めて5万の民衆を連行されました。(夫余という国自体は北魏時代まで続いたそう)

余蔚は当時鄴城内におり、夫余・高句麗及び上党の質子(人質)500人を率いて、前燕に対し反乱を起こし、夜に鄴城の北門を開いて前秦軍を引き入れました。

城門を開けられ、敵兵が大挙入城してしまえば、いくら巨城の鄴城といえどもひとたまりもありません。

この報を聞いた、前燕皇帝・慕容暐は、慕容評、慕容臧、慕容淵、孟高、艾朗などの臣下とともに、鄴城を脱出して、北の龍城へ向かい逃げました。

そして、前秦の苻堅様は堂々と鄴の宮殿に入りました。

ここに前燕の都・鄴は陥落したのです。


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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
木村 佐知子『曹操期の鄴建都の意義』法政史学 (85), 1-22, 2016-03
『晋書』『資治通鑑』

 

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