こんにちは。
慕容評と大后・可足渾氏によって、誅殺寸前まで追い込まれた救国の英雄・慕容垂ですが、逆に慕容評を襲い実権を奪ってしまえという意見には、いい子ちゃんぶって応じません。
慕容垂はこの危機に「逃げて」しまうことで解決をはかろうとします。
そして、跡取り息子の慕容令に策を相談します。
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五胡十六国時代を描いた小説。前燕の慕容垂、慕容徳、慕容評も出てくるぞ↓↓
慕容令とその兄弟
慕容令は、慕容垂の嫡子です。弟には、のちの後燕の皇帝、慕容宝や慕容熙、あとで名前が出てくる慕容麟、慕容悪奴などがいます。
慕容垂の息子もたくさんいますが、才能では慕容令が図抜けていたでしょう。
慕容令の策
慕容垂から策を求められた慕容令は回答します。
「今、主上(慕容暐)は、自分で判断もできず弱い存在です。すべてを太傅(慕容評)にまかせきりです。いったん誅殺の命令が下ると、驚くほどの早さで我らに災いが訪れるでしょう。
一族を救い、大義を失わないためには、龍城に逃れるのが一番の策です。
へりくだり、謝罪しておき、主上が成長し今回のできごとを理解していただくのを待つのです。これは、周公の「居東二年」と同じで、罪なきことが理解され帰還が叶えば事成れりでありましょう。
もし、うまく疑いが晴れないようでしたら、内に燕と代の民を慰撫し、外には多くの夷狄を抱き込み、「肥如之險」(「盧龍塞」のこと。幽州(北京あたり)から遼西に向かう途中にある塞)を守り、次の機会を待ちましょう。」
この策を聞いた慕容垂は
「善き策じゃ!」
と賛同し、龍城への避難計画を進めて行きます。
龍城は、前燕が中原に進出する前、遼東・遼西を制覇したころの本拠地で、今の遼寧省・朝陽市にあたります。
【周公の「居東二年」】
ちなみに慕容令の会話に出てくる【周公の「居東二年」】とは、殷の紂王を打倒し天下を治めた周の武王が亡くなり、息子の成王が即位したとき、武王の弟・周公旦が摂政となって国政を担当したときのエピソードのことです。
周公旦が国政を担当したときに、これに不満を持った管叔をはじめとする武王の他の弟たちが、周公旦が王の位を奪うつもりだとデマを流し、さらに東方で反乱を起こします。
この反乱を鎮圧するために周公旦は東征の軍を発し2年をかけ反乱を鎮圧し東方諸国を平定し、都に帰還をします。しかし、周公旦に対して成王は疑念をもっており、周公旦は自分が親のように成王を思っていることを表す「鴟鸮」という詩を送りますが成王の疑念は晴れません。やがて成王が成長すると、周公旦は国政の大権をあっさり返上し、自分は臣下の一人になります。このあと、成王にまた周公旦についてのあらぬ噂を吹き込む人間がおり、成王の疑念はますます大きくなり、周公旦は楚の地に難を逃れます。その後、成王が書庫を開いて昔の記録を調べたときに、ある書を見つけます。それは、成王が幼いころ病気になったときに、周公旦が神に「自分に罪をあたえ成王の病気を直してほしい」と願った祭文でした。成王を自分が周公旦に疑念を持っていたことを悔い改め、周公旦を呼び戻した
という話を根拠にしています。
↓周公旦の「居東二年」のエピソードはこちらから
黄帝~夏~殷~周~春秋戦国の王や覇者たちを描いた話を集めた第一巻です。白文に句読点をつけた文と、書き下し文、訳があるので、漢文の練習にもなるぞ。
慕容垂、龍城に向かう
さて、慕容垂は369年11月に、大陸で狩りをするという理由で鄴を出て龍城に向かいます。
大陸は巨鹿のことで冀州にあり、「項羽と劉邦」の時代に、項羽が秦の章邯と戦った「鉅鹿の戦い」の場所です。(巨鹿と鉅鹿は一緒です。)
ここには「大陸澤」すなわち「廣阿澤」という大きな湖があり、この湖周辺で狩りをしますよということを理由にしたのでしょう。
息子、慕容麟の裏切り
慕容垂が鄴を出て北に進み邯鄲まで来たところで、息子の一人慕容麟がなんと裏切り、鄴へ逃げ帰り、慕容垂の龍城への逃走をちくります。
慕容麟は元々慕容垂に愛されていなかったそうですが、大事なところで息子に裏切られるとは慕容垂大丈夫かと思ってしまいます。
慕容垂の逃走を聞いた慕容評は、皇帝・慕容暐にそのことを伝え、西平公・慕容強に騎兵を率いさせ追わせます。慕容強は范陽で慕容垂に追いつきますが、慕容令が後ろを固め、慕容強も無理攻めしません。ここで日が暮れて野営となり、慕容令が慕容垂に今後の策を伝えます。
慕容令、「居龍城二年の計」から「前秦への出奔の計」に切り替えを献策
「今回の策は、東都(龍城)を保つことができてこその策でした。この時点で事が漏れてしまった今、この策を完遂することはできないでしょう。
秦主(苻堅)は天下の英傑を求めているとのこと。かくなる上は、秦主の元に行くのが一番よい策でしょう」
慕容垂はこの策に賛成し、追手に後をつけられないようにちりぢりに逃げます。そして、南山の傍らを通り鄴方面に還り、趙の顯原陵というところに隠れます。
石虎の呪い
顯原陵はどうやら後趙の皇帝・石虎が葬られたところらしく、石虎のご加護があればと思いますが、石虎が慕容に加護など与えるわけがありません。災いのみ与えるでしょう。
(たしか、慕容儁あたりに、死体をあばかれ鞭打たれていたような・・・)
そして、まもなく石虎の呪いが巻き起こります。
猟者(野武士まがいの追手か?)数百騎が突如四方向から襲ってきたのです。抵抗できるような兵力差でもなく、逃げようとしても周囲を囲まれ逃げ道が無く絶体絶命の危機です。
ここで慕容の神が慕容魂をお救いになります。猟者の所持していた鷹が一斉に飛び立つという出来事が起き、これに驚いた追手は散り去ってしまいます。
慕容垂はこの奇跡を感謝し、白馬を生贄にして天に祭ります。当然石虎なんぞには祭りません。
慕容垂はこの呪われた石虎の地を離れ前秦への出奔計画を進めていきます。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
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