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前燕は、慕容皝が死に、慕容儁が燕王の位を継ぎます。349年に後趙の石虎が死ぬと、後趙は、後継者争いから大混乱に陥り、冉閔が魏の国を興すなど大乱が続きます。
慕容儁はこの後趙・冉魏の大乱の隙をつき、華北の征服を図ります。
その準備とし、軍の再編を行い、弟の慕容恪を輔国将軍、叔父の慕容評を輔弼将軍、陽騖を輔義将軍、弟の慕容垂を前鋒将軍・建鋒将軍に任命し、20数万の精鋭を選び、きたる中原への出陣へそなえます。
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前燕軍、華北侵攻を開始する
350年、慕容儁は三軍、20万の精鋭を率いて、華北への侵攻を開始します。
盧龍より出撃し、まず無終に軍を駐屯させ、幽州をうかがいます。
後趙の幽州刺史・王午は城を棄て逃げ、その部将の王他に幽州の中心都市・薊(今の北京)を守備させます。
幽州を制圧、薊に遷都する
慕容儁率いる前燕軍は薊を落とし、王他を斬りました。
薊という幽州の中心と、その南に冀州や鄴への拠点を手に入れた慕容儁は、早速この薊に遷都をし、中原進出への意思を強く表明します。
前燕軍さらに南下し、冀州エリアに侵攻する
薊を手に入れたあとも前燕軍は華北一帯に侵攻していきます。
慕容儁は、慕容恪に中山を攻略させ、慕容評に、さきに逃げていた王午を魯口に攻めさせます。
慕容恪は、唐城に駐屯し中山を攻めますが、冉閔は、部将の白同、中山太守・侯龕に死守させ、落とすことができませんでした。
中山がなかなか落ちないのをみた慕容恪は、配下の将慕容彪に攻略をまかせ、自らは軍を進めて常山を攻めます。
一方、慕容評は南安に駐屯し、王午を攻めます。王午は鄭生を派遣し、慕容評の軍を阻もうとしますが、慕容評は鄭生を撃破し斬ります。
このような戦況の中、侯龕は投稿し、慕容恪は軍を進め中山を制圧し、白同を斬りました。
この一連の侵攻の中で、慕容儁は軍紀を厳しくしたので、前燕の諸将が略奪などを犯すことはなかったようです。
冉閔配下の、章武の太守・賈堅は郡兵を率いて、慕容評の軍をまちうけ、高城で戦いますが、慕容評の前に敗れ、賈堅は捕らえられ、三千人が斬首されました。
慕容評は、慕容儁の次の慕容暐の時代に「君側の奸」の典型になる人物ですが、このときはまだ前燕軍の優れた将軍の一人として、戦功をたてていたようです。
こうして、中山、章武と前燕の冀州エリアの経略が進んでいきます。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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