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前回、慕容皝が、慕容廆没後跡を継いだところまで書きました。今回は、慕容皝即位後の慕容部の兄弟間の争いを書きます。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
慕容翰の出奔と慕容仁・慕容昭の反乱
慕容皝は、文武に優れた傑物でしたが、その兄弟もとくに武力に秀でた人物たちでした。
庶子ながら慕容廆の長男であった慕容翰は、とくに武に秀で、慕容廆存命時も多くの戦いで活躍していました。また、慕容皝の同母弟の慕容仁、慕容昭も宇文部との戦いで活躍し、慕容廆から可愛がられておりました。この兄弟の才能は、強いものが君主となる鮮卑族では、君主の地位を脅かす原因になります。事実、慕容皝も兄弟たちを疑いはじめます。
慕容翰は危険を察知して、となりの部族、段部へ亡命します。
慕容仁と慕容昭はこのままでは処断されると思い、先手を打って慕容廆を廃そうとしますが露見し、慕容昭は慕容皝に殺されてしまいます。
慕容皝は、慕容仁の元にも監察官を送り反乱を起こそうとしたのかを調べようとします。
遼東で慕容仁の乱が燃え上がる
しかし慕容仁は慕容皝が送った監察官を処刑し、東へと逃げ、遼東の平郭で乱を起こします。
慕容皝は弟の慕容幼や司馬の佟壽を派遣して乱を平定しようとしますが、慕容仁の応戦により大敗してしまいます。
この敗退により、遼東の情勢が慕容皝に不利に動いていきます。
まず、襄平の長官であった王冰や将軍の孫機は、遼東の地で慕容皝に反乱を起こします。遼東の慕容皝側の臣、東夷校尉の封抽、護軍将軍の乙逸、遼東相の韓矯、玄莬の太守高詡などは城を棄てて逃げ帰ってしまいました。
これにより、慕容仁は遼左の地(遼河の東側)を手に入れ、車騎将軍、平州刺史、遼東公を自称し慕容廆と全面対決の姿勢を顕にします。
慕容仁に周辺勢力も呼応し慕容皝包囲網を形成
この慕容仁の乱に呼応し、宇文部の宇文帰、段部の段遼など、慕容部と対立し、これまで慕容部によって勢力を弱められてきた、鮮卑の諸部たちも慕容仁に味方し、慕容皝包囲網を形成します。
慕容皝にとっては、単なる内乱では収まらない、危急存亡の秋を迎えてしまうのです。
しかし、ここから慕容皝の反撃がはじまります。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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