中国史上最大級の戦乱の時代、五胡十六国時代。その各国の攻防を描く ~東北からの疾風、前燕の中原侵攻~① 慕容部と慕容廆の即位

中国史

こんにちは。

しばらく五胡十六国時代について書いてなかったので、久しぶりに書きます。

五胡十六国時代のおおまかな流れはこちら

五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら

前燕

今回は、前燕になります。中国の東北エリアに勃興し、何人もの優れた君主をいだきながら、中原に進出していくという、民族は異なりますが後の世の金や清とも存在が重なる国です。

前燕は正式名称は「燕」ですが、今後五胡十六国時代に建国される多くの「燕」国と区別するため前燕と呼ばれています。

「燕」という名前のとおり、今の中国の東北部あたりを領することから覇権がスタートします。

前燕は今の遼寧省あたりに跋扈していた鮮卑の慕容部が建てた国です。五胡十六国時代前半に覇を唱えた前趙や後趙に比べると中原から離れていたため、覇権を確立するのも前秦が華北を統一するまでの五胡十六国時代前半の遅い時期になります。一時期華北を統一した後趙が瓦解したあと、中原に侵攻していきます。

前燕の4世代における成長

その前燕の歴史をみていきたいと思います。

前燕が発展する過程は4世代にかけて行われます。

①慕容廆(在位:285年 – 333年)

②慕容皝(燕王として在位:337年 – 348年)

③慕容儁(燕王として在位:348年 – 352年、皇帝として在位:352年 – 360年)

④慕容暐(皇帝として在位:360年 – 370年)(盛況だった時期に実権を握っていたのは慕容儁の弟、慕容格。)

前燕は慕容廆から代々有能で戦に強い君主が現れその能力と統率力で周辺を制圧していきますが、とくに③慕容儁の世代には、弟に慕容格、慕容垂(後の後燕初代皇帝)と、傑物3兄弟が現れ、華北の東半分を制圧するほどの大国となります。

まずは前燕の基礎を作った慕容廆から書いていきます。

慕容部前史と慕容廆の誕生

慕容廆の曽祖父である莫護跋は三国志の魏が建国されたころには遼西あたりに住み着いていて、司馬懿仲達が魏の兵を率いて公孫氏を討伐したときに従軍をして手柄を上げました。そして棘城(遼寧省北票市)の北で国を建てたとあります。

そのあと、木延→慕容廆の父である渉帰と代が移ります。渉帰のときには、同じ鮮卑の宇文部の圧力を避けるため遼東の北に本拠地を移します。このあたりから今まで遊牧民族の風俗が強かった慕容部は中国本土の風俗を手本としだしたようです。

西晋期の遼河周辺の勢力図

慕容廆は269年に慕容渉帰の子として生まれます。
中国本土では、263年に蜀が魏によって滅ぼされ、その魏も265年に晋に取って代わられており、その直後のことです。

慕容廆の天賦

慕容廆は、幼くして、すぐれて大きくたくましかったとあります。そして美しい姿かたちであり、身長は八尺、雄傑(才知勇力のすぐれた人物)にして大度(大きな度量)有りという人物だったそうです。まさにパーフェクト超人ともいうべき人物でした。

西晋の安北将軍の張華が幽州に赴任しているころ、子供のころの慕容廆をみてその将来性を大いに認めたという逸話も残っています。

張華は西晋の名臣で、羊祜や杜預とともに呉征伐の功臣の一人です。のちに西晋が滅亡に進むきっかけとなる八王の乱が起こったあと、恵帝の皇后・賈南風が権力を握り天下を専断するようになったときも、この張華に政治をまかせたため結果的に数年間天下がうまく治まりました。

慕容廆の即位

慕容廆の父親、慕容渉帰が没したあと、その弟の慕容耐が位を奪い、慕容廆を殺そうとしました。慕容廆は逃げて難を逃れます。そのあと、慕容耐が部民たちに殺され、彼らは慕容廆を迎えて部族長にしました。

部族長の位に即いた慕容廆は慕容部の勢力を広げていきます。

【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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