五胡十六国時代の覇権国家、後趙を描く② 石勒の快進撃

中国史

劉淵の部将として飛躍

前趙(漢)の劉淵に帰順した石勒は、その部将として動き飛躍していきます。

307年10月、烏桓の張伏利度の部族を帰伏させ手柄をたてます。これにより前趙から輔漢将軍・平晋王の地位を得て、自分で動かせる兵力と前趙内での地位を手に入れることに成功します。

このあと、前趙の将軍として東方エリアの制圧、経営を担っていき、どんどん勢力を広げていきます。

石勒とともに、漢人部将の王弥も前趙の東方エリアの経営を行っていきます。ちなみに王弥は漢人ではありますがその軍の乱暴狼藉は異民族勢力よりひどかったといいます。

石勒の東方エリアの経略は、以下のように進みます。

308年 鄴を陥落させる
赦亭・田禋を滅ぼし、乞活(漢民族の武将流民集団)の一部を吸収

309年夏 冀州の郡県を平定

この時点で、兵力10万の一大勢力を築きます。

名参謀・張賓を獲得

この冀州を平定したときに、冀州の漢人を登用して君子営という政治顧問団を設立します。この君子営の中に、張賓という人物がおり、以後石勒の参謀として、石勒の覇権を支えていきます。この張賓の数々の献策によって、石勒の勢力が発展していったのは間違いないでしょう。

311年の前趙の洛陽攻撃に石勒も参加します。劉粲、劉曜、王弥とともに功績をあげます。4月には、王衍率いる西晋の王侯貴族を石勒の軍が襲撃・殲滅し、10万人を殺戮します。そして6月には、上記武将たちと洛陽を陥落させます。

石勒の勢力拡大

洛陽を攻略した直後、石勒は張賓の献策により、対抗勢力となっていた王弥を滅ぼし、その勢力を取り込み自らの勢力を広げていきます。

河北の東方エリアを中心に勢力を広げていった石勒は、襄国を拠点と定めます。襄国は今の河北省邢台になります。太行山脈の東辺で、鄴や邯鄲の北方にあたります。

まず、西晋から独立して幽州(河北省北部)を拠点とした王俊と対立します。
調略により遼西の鮮卑段部を王俊から離し自らの味方にし、さらに烏桓の勢力も受け入れて、314年3月に王俊を打倒し幽州を獲得します。

続いて、これも元西晋の将で、幷州を拠点としていた劉琨を317年7月に打倒します。劉琨は318年に段部によって滅ばされます。

これにより、華北の漢人勢力は消滅します。

漢人以外の勢力も、乞活勢力を徐々に制圧していき、319年4月に陳川(乞活の盟主)を帰順させ乞活勢力のほとんどを自らの勢力下におさめます。

ここまでは、半ば独立した勢力ながら前趙の武将として自らの勢力を伸ばしていった石勒ですが、ここで二回目の転機がおとずれます。前趙でのクーデータを機会とした自らの独立と建国です。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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