五胡十六国時代の覇権国家、後趙を描く①

中国史

五胡十六国時代、前半の覇権国家となった後趙は、羯族の石勒が建国した国です。

この石勒は、五胡十六国時代に現れる数々の人物の中で私が一番好きな人物です。

五胡十六国時代でも1,2を争う傑物と言ってもよいでしょう。

この石勒が建国した後趙という国について書きたいと思います。

後趙は華北のほぼすべてを制覇するほどの勢力を築きますが、残念ながら五胡十六国時代名物と言ってもよい、建国時の君主が亡くなったあとのお家騒動+その後の乱脈政治によって短命に終わってしまいます。ただ、建国者石勒がもう少し長生きをしていたら、その後の中国史の流れも変わっていたのではないかというifもつい考えたくなってしまいます。

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石勒の出身部族

石勒は、上党武郷出身の羯族です。

羯族は、諸説ありますが、匈奴の一種であるとか、ソグディアナ・タシケント一帯のイラン人であるとなど言われています。身体的特徴としては、「深目」「高鼻」「他髭」であったそうです。明らかに、西域の民族の特徴ですね。羯族は上党(山西省)を中心として河北一帯に西晋初期には居住していたそうで、自立はできずに漢族に雇われるなどして生活していました。

奴隷として売られる若き日の石勒

石勒は羯族の小部族の長の子として生まれました。ただ、大安年間(302年~303年)の幷州(山西省)大飢饉によって羯族はバラバラになってしまいます。

石勒も、知り合いの漢人の郭敬によって養われなんとか生き延びました。ただ、そのあと、司馬一族の一人、司馬騰(八王の一人ではないが、八王の乱では活動する)の奴隷狩りで捕まり山東に売られてしまいます。

このように、若いときは大変な苦労をしながらも、自らの才略(もちろん運もあるでしょう)で生き残っていきます。

群盗から劉淵の部将へ

山東では師懽(しかん)という人物の奴隷となり耕作をすることになりました。しかしそのあと解放されて、今度は群盗になり、次いでその才略から群盗の首領になり、現在の河北省南部から北部、山東省西部を劫略してまわり、一勢力を気づいて築いていきます。

無理やり例えるならキングダムの主人公元下僕の信と、元野盗の将軍桓騎を足して2で割ったような人生を送っていきます。

その後、八王の乱で世の中が混乱している中で、成都王司馬穎の部下の公師藩が独立したときにその配下になりました。(「石勒」ともこの頃から名乗り始めます)。その後、公師藩が戦死してしまい、一時山西の部族長の下につきますが、その後、前趙(漢)の建国者、劉淵の配下になります。

このときから、石勒の成功への道が開けていきます。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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