五胡十六国時代
三国志の時代が、曹魏を継いだ西晋の天下統一で終わり、平和の時代が訪れたと思われましたが、その西晋の統一からわずか30年経たないうちに、天下は乱れます。
そして、異民族国家の勃興を含めた中国史上でも最大級の戦乱の時代、五胡十六国時代が幕を明けます。
その五胡十六国時代は、名前の通り、様々な民族がそれぞれ国を建国して興廃を繰り返します。
五胡十六国時代に出現したそれぞれの国のことを書いてみたいと思います。
まずは、五胡十六国時代開始のきっかけとなった西晋の八王の乱の間に建国した匈奴の前趙(漢)について書きたいと思います。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
建国者 劉淵
前趙(漢)は劉淵という人物が、304年10月に離石(山西省離石市)の左国城というところで漢王を称したところから始まるのですが、この劉淵はどのような人物だったのでしょうか。
劉淵は魏の嘉平年間(249~254)に生まれました。時代でいうと三国志の蜀が姜維のもと再び北伐を始めた頃に当たります。
劉淵の父の劉豹は、曹魏が南匈奴を五部(左・右・南・北・中)に分けて統治しようとしたときに左部師になりました。そして、息子の劉淵を人質として洛陽に送りました。劉淵は元々、中国の古典に親しんでいましたが、この人質生活中に洛陽の様々な人々と交流を結び、中国文化の教養をさらに高めていったそうです。
匈奴という異民族が建国した国というと、塞外の地から中原に攻め込んで来たイメージがありますが、劉淵が所属する南匈奴は、三国志の時代には中国内地で生活をしており、この劉淵のように中国文化にも精通しているものも多数いたと思われます。
270年代後半に劉豹が没すると劉淵はそのあとを継ぎ、西晋から左部師に任じられました。そして、部師の名称が都尉に改められると、引き続き左部都尉となり、さらに北部都尉も兼務しました。西晋内で外戚楊駿が権力を握ったときには五部大都督となり、五部に分割統治されていた南匈奴すべてに影響力をもつことになりました。これにより劉淵は、南匈奴の盟主的な存在となっていきます。
そしてこのあと、西晋の国力を著しく落とし、かつ劉淵の飛躍のチャンスとなる八王の乱が激化してきます。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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