武田信玄と上杉謙信(当時は長尾輝虎)の戦いは、第四次川中島の戦いが一番有名ですが、その有名かつ大激戦の合戦のあとにも一度、川中島を舞台に戦っています。地味なイメージが強い第五次川中島の戦いをはどんな戦だったのでしょうか?
第五次川中島の戦いの前の武田信玄と上杉謙信の動き
上杉謙信は、永禄三年(1560年)にはじめて関東に出兵してから、関東管領を継いだという責任感からか毎年のように関東に出兵します。北条氏康はこれにより相当苦しめられます。上杉謙信の侵攻がなければ、もっとスムーズに関東制覇ができていたでしょう。
武田信玄は、北条氏支援のためと頭打ちになってきた信濃に変わる領土獲得のため上野の国に出兵します。第四次川中島の戦いの終わってすぐの永禄四年(1561年)11月には上野に出兵します。その後北条氏と連携して上野や武蔵の国で上杉軍と戦います。またその間、上野の国西部を切り取っていき領土化していきます。
永禄九年(1566年)9月には、上野の国の堅城、箕輪城に籠もる長野氏を滅亡させ西上野を制圧します。
箕輪城の長野氏と言えば、名将長野業正が有名です。長野業正は6度に渡る武田軍の攻撃を撃退して、彼が生きている間は箕輪城は落ちませんでした。
武田信玄は、上杉謙信が関東に気を取られている間に、逆方向の飛騨国の攻略を進めます。そのため、会津の葦名盛氏に要請して北方面から越後に侵攻させる手はずを取り、飯富昌景(のちの山県昌景)と甘利昌忠に飛騨を攻めさせました。
葦名盛氏は、越後の菅名庄まで侵入してきますが、上杉謙信は慌てて越後に帰国し、葦名軍を追い払います。武田信玄もこのとき、越後国境近くの野尻城を落としますが、奪回されてしまいます。
飛騨方面では攻め込まれた上杉方の三木自綱と江馬輝盛が上杉謙信に助けを求めます。
飛騨を武田信玄に取られると、越中も狙われ、そのまま背後から越後を疲れる恐れもあるため、飛騨の三木自綱と江馬輝盛の要請に応じた上杉謙信は、7月下旬に春日山城を出陣し、7月29日に善光寺に着陣します。
第五次川中島の戦い
上杉謙信は8月3日に犀川を渡って川中島に陣を張ります。
武田信玄も深志方面から軍を進めて、川中島への出口にあたる塩崎城に入りました。上杉謙信は武田信玄との決戦を望みますが、武田信玄としては、すでに信濃のほぼ全域を抑えるまでになっていましたので、危険をおかしてまで上杉謙信との決戦に応じようとしませんでした。そしてそのまま対陣は60日に及びます。
その後、北条が関東で上杉方の城を攻め始めたので、上杉謙信は10月1日に越後へ兵を引きました。
これにより川中島の戦いはすべて終了しました。
川中島の戦いの結果
5回に渡り、川中島を舞台に戦いを繰り広げた武田信玄と上杉謙信でしたが、その間、武田信玄は徐々にではありましたが、飯山以北をのぞく信濃北部を領土化しました。それをみると実質的には武田信玄は勝利したとも言えます。ただし、北条と同じで、上杉謙信さえいなければ、武田信玄はもっと早く信濃を制圧して上洛の軍を起こすのも早まったかも知れず、寿命が尽きる前に京の都に進めたかも知れません。
そのようなifを考えるのもおもしろいです。
【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)
武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)
武田信玄(1)【電子書籍】[ さいとう・たかを ]
|
コメント