第1次~第5次の川中島の戦いの流れを書いてみる④ 第三次川中島の戦いについて

武田信玄

第二次川中島の戦いのあとの信玄の調略

弘治元年(1555年)に上杉謙信と和睦し、第二次川中島の戦いは終わりましたが、武田信玄はその直後から調略をはじめます。善光寺周辺の国衆を調略で崩そうとし、弘治二年(1556年)善光寺の裏にある葛山城の落合一族を切り崩していきます。葛山城は善光寺のすぐ西の山にあり、ここから戸隠を経て越後へ通じる道を押さえる要衝でした。


信虎・信玄・勝頼 武田三代


戦国大名と国衆 (角川選書)

また、真田幸隆に尼飾城を落とさせ、小県から地蔵峠を通り川中島に出る道も確保させます。

この弘治二年(1556年)は上杉謙信が家臣同士の揉め事やらに嫌気がさして引退をしようとした年になります。結局は引退を撤回しますが、この間に武田信玄は調略の手を伸ばしてきます。箕冠城の大熊朝秀を調略し、越中に走らせます。また、会津若松の葦名盛氏に属する山内舜通に大熊朝秀を援助させ、越後赤谷の小田切安芸守と一緒に東方から牽制をさせます。結局、大熊朝秀は越中から越後に攻めますが、上杉謙信が派遣した上野家成などに敗退しました。

このような調略・謀略を駆使して越後にダメージを与えつつ、北信エリアを徐々に押さえていった武田信玄ですが、弘治三年(1557年)2月に葛山城を急襲し落とします。これにより上杉謙信方の国衆の島津も長沼城から落ち延び、飯綱社も武田信玄の手に落ちます。

そして、高梨政頼の家臣を調略しながら、高梨政頼がよる飯山城に攻め寄せます。

上杉謙信の出陣

この状況になって、上杉謙信は信濃へ出兵しようとしましたが、豪雪のためなかなか兵を出せませんでした。このような豪雪の天候を踏まえての武田信玄の葛山城急襲だったのではないかとも思われます。その後上杉謙信はようやく出陣でき、福島城や山田要害を落としながら行軍し、4月21日になって善光寺に布陣しました。

その後、葛山城を攻め、第二次合戦のあと破却された旭山城を再興してここに兵をいれます。5月なって坂木や岩鼻を攻め火をつけますが、武田信玄は戦に応じません。そこで上杉謙信は野沢温泉に兵を向け市川藤若を攻めます。市川藤若は信玄に救援を頼みよく持ちこたえ、上杉謙信は兵を飯山城に引きます。

小谷城急襲と、上野原での戦い

この上杉謙信が北信で戦いを続けている頃、武田信玄は動きを隠し、深志城に入ります。そして糸魚川沿いに軍を進め北安曇郡の小谷城を攻略しました。これは、松本から越後の糸魚川方面に抜ける要衝にあたり、武田軍が上杉謙信の背後を狙えるようになったということで武田信玄有利の状況になったようです。その後、上杉謙信の軍が動き、8月に上野原(長野市)で両軍が衝突しました。この戦いは両軍とも決め手を欠いたようです。その後9月になってから上杉謙信は越後に兵を引き第三次川中島の戦いは終了しました。

第三次川中島の戦いを終えて

戦いを終えての状況を見てみると、上杉謙信の信濃出兵によって、ある程度妨げられているとは言え、武田信玄による北信の制圧が着々進んでいる状況です。また、調略を仕掛けながら戦による被害を最小に押さえながら北信の制圧を進めていく武田信玄の戦略はさすがと言えます。

このあと、数年のときを経て、武田信玄と上杉謙信の戦いは第四次川中島の戦いへと向かっていきます。

【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)


武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)


武田信玄 (歴史文化ライブラリー)

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