武田信玄の信濃侵攻により、村上義清、高梨政頼などの信濃の国衆は、越後の上杉謙信に助けを求めます。上杉謙信(当時は長尾景虎と名乗っている)もそれに応じて信濃へ出兵しました。基本的に両軍は善光寺平(川中島)の領有をめぐって戦います。
第一次川中島の戦い 初戦
天文二十二年(1553年)4月9日に葛尾城落とし、村上義清を追った武田軍はその勢いのまま、川中島方面に進出します。4月12日に武田軍の先方は、5000の長尾軍・村上など北信軍の連合軍と遭遇しました。このとき長尾軍の中に上杉謙信がいたかは不明です。武田軍の先方はこの連合軍に敗れ、4月23日に村上義清に葛尾城を奪回されてしまいます。武田信玄は決戦を避け、深志城(松本市)へ兵を退かせ、5月11日に一旦甲府へ戻ります。村上義清は勢いに乗り、小県郡の和田・塩田を奪回し、塩田城(上田市)へ入場します。せっかく奪った小県郡ですが、村上義清によって奪い返されてしまいます。
第一次川中島の戦い 武田軍の反撃
軍を立て直した武田信玄は、7月25日に甲府を出陣し、佐久口から信濃に入り8月1日長窪に陣を張ります。そして、まず和田城を攻め落とします。その後8月4日に高鳥屋城を落城させ、その後内村城も落城させました。こうして小県郡の村上方の城を次々と落城をさせ、塩田城も落とし、村上義清は再度、越後に逃亡します。武田軍は、16もの城を落城させ、塩田平一帯を取り戻します。
第一次川中島の戦い 上杉謙信の川中島進出
村上義清の要請を受けた上杉謙信は、8月に軍勢を率いて自ら川中島へ出兵します。そしてまず9月1日に八幡で武田の部隊を破り、荒砥城を落とします。武田軍は劣勢で、9月3日に青柳が放火され、9月4日に会田虚空蔵山城(松本市)も落城します。長尾軍に筑摩軍まで侵攻された武田信玄は、長尾軍が武田領深くまで進出してくるのを見計らって、荒砥城や麻績で夜襲をかけます。長尾軍は八幡まで退き今度は塩田方面に兵を進めます。しかし武田軍の守りが堅いのであきらめ9月17日に坂木南条を放火します。その後9月20日に信濃から撤退しました。武田信玄は塩田城を出て途中まで兵を進めていましたが、上杉謙信が撤退したと聞くと、深志城に入り甲府に戻りました。
第一次川中島の戦いを終えて
この第一次川中島の戦いは、川中島エリアのみでなく、筑摩郡や小県郡方面での戦いもあり広い範囲で両軍がぶつかる戦いでした。ただ、全面衝突ではなく部分的な局地戦に過ぎませんでした。ただ、全体で見ると武田軍が不利で川中島南部まで及んだ勢力が筑摩郡北部まで押し返されてしまいました。
武田信玄に取っては、はじめて上杉謙信と干戈を交えた戦いになり、また、今まで信濃の部分部分を支配する国衆との戦いであったのが、越後一国を統一した大名との戦いということになり、信濃の制圧にとっても、今後の武田の勢力拡大にとっても強敵の出現ということになりました。
このあと武田信玄は信濃侵攻の過程で、眼を南に向けて南伊那を制圧し、その後第二次川中島の戦いに望むことになります。
【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)
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