武田信玄の信濃侵攻⑦

歴史

天文19年(1550年)9月9日の砥石崩れで、信玄は村上義清によって二度目の敗北を喫してしまいます。


信虎・信玄・勝頼 武田三代


戦国大名と国衆 (角川選書)

村上と小笠原の反抗

上田原の戦いのときと同じように、これまで信玄に攻められてばかりいた村上と小笠原は反攻をはじめます。

小笠原長時が村上義清の援助で平瀬城にうつり、旧領の奪還に動きます。小笠原の旧臣は、島立・山家・三村氏など信玄方の城を落としていきます。勢いにのった長時が深志城へ攻撃をしようとしますが、信玄の出馬を聞いた村上義清が長時に無断で退却をしてしまいます。その結果、小笠原軍は、800~1000人くらいの人数になってしまいます。野々宮で健闘し、馬場信春や飯富虎昌を一時撃退しますが、その後二木氏の中塔城に籠城をします。

村上義清は、佐久方面に侵入し、11月1日に小諸に移動し、十三日に野沢や桜井山などに放火します。信玄はその対応として14日に若神子へ向かいます。

真田幸隆の智略。砥石城を落とす

そうこうしているうちに、天文二十年(1551年)5月26日に真田幸隆が突如砥石城を落城させます。砥石城内の村上方の武将を謀略を駆使して味方に引き入れ、城兵の不意を襲い落城させました。

武田信玄ですら落とせなかった砥石城をその知略であっさりと落とした真田幸隆。ご存知の通り、真田昌幸の親父で、真田幸村の祖父にあたります。真田一族の活躍はここからはじまると言っても過言ではないでしょう。

安曇郡と筑摩郡を平定

砥石城を手に入れたことにより、上州沼田に至る道や、小諸方面と善光寺方面を結ぶ道を押さえることができることになり、信濃東部の攻略にたいへん有利な状況になりました。これによって佐久で唯一信玄に抵抗していた岩尾城も信玄に降伏しました。10月に義清が丹生子を陥れたので、10月14日に信玄は出陣し、20日に深志城に入場しました。24日に筑摩郡の平瀬城を落とし、27日に安曇郡の小岩岳城を攻めます。そのときは攻め落とすことはできませんでしたが、翌天文二十一年(1552年)7月27日に小岩岳城攻略のために出陣し、8月12日に落城させています。これにより小笠原の旧領の安曇郡と筑摩郡もほぼ武田の支配下に入ります。

その結果、信濃における大きな敵は村上義清のみになります。

葛尾城落城。北信の雄・村上義清、越後へ落ち延びる。

天文二十二年(1553年)3月29日に深志城から出陣した信玄は4月2日に苅屋原城を落とし、其の日の夕方には塔ノ原城も落城させます。そして、4月6日村上義清の本拠葛尾城を攻めるために出陣します。9日朝には葛尾城は戦わずして落城します。村上義清は越後の上杉謙信を頼って落ち延びていきます。これにより信玄は信濃東部も手に入れます信濃制圧に向けて残りは北信と木曽・南伊那のみになります。

ただ、村上義清をはじめ、信濃の諸将は上杉謙信を頼り、これによって世に名高い、川中島の戦いが引き起こされます。

信濃制覇まであとわずかですが、残りはまた今後書きます。

【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)


武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)


武田信玄 (歴史文化ライブラリー)

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