歴史

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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程①

毛利元就と言えば、安芸の国(今の広島県の西半分)から出発し中国地方のほぼ全体を制圧した戦国大名として知られていますが、その過程のはじまりは安芸・備後(2国あわせて今の広島県全体)を支配下に置いたことからはじまります。のちの中国地方における毛...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程② ~元就が家督を継ぐまで~

甥、幸松丸の後見としての元就の動き 元就が幸松丸の後見となったころの安芸・備後は、多くの国人領主がそれぞれの所領を治める状態でした。国人領主は、自分の所有する土地は完全に自治しており、服属する大勢力が戦をするときには自らの兵力を率いて参戦し...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程③ ~家督相続から大内方への復帰~

毛利元就家督相続直後の騒動 甥の幸松丸が9歳で急死したあと、毛利元就は重臣たちに押され、毛利家の家督を継ぎます。 しかし、この家督継承はスムーズにことが進みませんでした。 宿老の中の、坂広秀と渡辺勝の二人は、元就が家督相続するときの重臣たち...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程④ ~安芸国人領主の盟主に~

大内方復帰後の元就の活躍 尼子方から大内方へ復帰した元就は、まず広島湾付近での武田氏との戦いに大内氏方とし参戦し、勝利に貢献します。さらに志和米山城(東広島市)の尼子方国人領主である天野氏攻めにも参戦し、和平仲介の調整を行い天野氏を大内方に...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑤ ~安芸国内での影響力を強化~

近隣の国人領主との関係を深める 毛利元就は、毛利氏の領地と隣り合う領地を支配し、安芸と石見にまたがる有力国人領主の高橋氏を滅ぼし、勢力を一気に広げます。 ちょうどこのとき、大内、尼子の二大勢力はそれぞれ安芸以外の方面に力を入れないといけない...
戦国時代

佐賀の城を攻める ~唐津城と名護屋城~① まずは唐津城

今年の夏休みは、九州に行きました。佐賀県唐津市の2城を攻めましたので、それについて書きたいと思います。 佐賀市内にある佐賀城は以前行ったので、今回は行きませんでした。 今回は唐津市の市街にある唐津城と、郊外にある名護屋城を回りました。 とく...
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佐賀の城を攻める ~唐津城と名護屋城~② そして名護屋城

唐津城を攻めたあとは、車で名護屋城に向かいました。名護屋城は唐津市内にあります。ただ、唐津の中心地からは、車で30分ほど西北に走ったところにあります。 名護屋城は私が近年で一番行ってみたいと思っていた城なので、念願叶い、だいぶテンション高く...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑥ ~平賀氏の内紛と吉田郡山城の戦いまでの過程~~

再び安芸への勢力浸透を試みる大内と尼子 大内氏と尼子氏がそれぞれの問題に対処していて、安芸の国に大きな圧力がかかってこない間に、安芸での勢力浸透に力を入れてきた元就ですが、そのつかの間の時間も終わりをつげます。 大内氏は、北九州で大友氏と対...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑦ ~吉田郡山城の戦い~

尼子軍、安芸の国に侵入 尼子詮久(のちの晴久)は、天文9年(1540年)安芸に攻め入ってき、9月4日に吉田郡山城の西北4キロメートルの風越山に着陣します。 昔からの説では、この9月の尼子軍の侵攻の前に、先陣として尼子の精鋭部隊新宮党3000...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑧ ~第一次月山富田城の戦い~

尼子経久の死 吉田郡山城の戦いに敗れて、出雲に退却した尼子氏にさらなる悲劇が遅います。 尼子氏の全盛を築いた尼子経久が84歳で死去しました。また、進出していた播磨・備前・備後・石見でも有力国人領主らが次々と離反していきます。 尼子経久が築い...