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後趙の石虎率いる数十万の軍に本拠地棘城を囲まれながら、息子の慕容恪の活躍などで後趙軍を撃退し、その勢いのまま、前燕の西に勢力をもっていた段部を壊滅させ、その領土を支配することに成功します。
これにより、前燕の国境は後趙と接することになり、いよいよ中原への進出が現実味をあびることになります。
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慕容翰の帰還
339年、慕容皝は高句麗を攻撃し、高句麗の王釗は、慕容皝に盟を乞い、世子を慕容皝の元に差し出します。
さて、慕容皝の兄である慕容翰は、慕容皝が即位したときに、慕容皝からその武才ゆえに謀反を疑われ、段部に亡命していました。
段部が前燕により壊滅すると、宇文部の宇文帰の元に逃げました。
慕容翰は自分の名声が早くから高かったことを理解していて、これでは宇文帰からも疑われて身の安全がはかれないと思いました。
そこで、わざと狂人のまねをして宇文帰に疑われないようにしました。宇文帰もこれを信じて、慕容翰が宇文部の勢力下の土地を自由に動けるようにしていたので、慕容翰は宇文部の勢力内の山や川の形や、戦に必要な要路を調べました。
慕容皝は商人の王車を派遣して慕容翰の様子を詳しく調査させていました。王車は引き返し、慕容皝に、「慕容翰は帰還の意思があります」と伝えます。
慕容皝は、再び王車を遣わし、慕容翰に弓矢を送ります。
これを慕容皝からの帰還の許可であると受け取った慕容翰はすぐに宇文帰の駿馬を盗み、二人の子を伴って、前燕に帰還しました。
このとき、宇文帰は百騎を追手を出し、慕容翰を追いかけさせます。慕容翰は追手に「世話になった宇文部のものを殺すのは忍びない、百歩離れたところに刀をたて、それを私が射抜いたら、追ってくるのをやめろ。」に言いました。そして見事に刀に当て、追手は逃げていきました。
これは、三國志で呂布が袁術の武将紀霊と劉備軍を仲裁するために、立てた的に見事に矢をあて、紀霊を引かせたエピソードに少し似ている気がします。
このような、武の才に恵まれた兄弟の帰還によって、前燕の陣容はさらに強力になっていくのでした。
前燕の華北進出
慕容皝は340年、後趙への侵攻を計画し、諸将に、「石虎は安楽周辺の諸城の守りは厳重にしているが、その南北の備えはできていない。今、間道を通り、不意をつけば、冀州の北部はことごとく手に入れることができるだろう。」と言いました。そして、2万騎を率いて出陣し、蠮螉塞に出て、その後長駆し薊の街まで進み、武遂津を渡り、高陽の街に入りました。軍の進行路に蓄えられてた後趙の糧食は焼き払い、幽州・冀州の3万戸を引き連れて帰還しました。
この侵攻により、中原進出への足がかりを得た前燕ですが、そのまま後趙との対決に入る前に、遼東・遼西の支配を完全なものにするために動きます。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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