中国史上最大級の戦乱の時代、五胡十六国時代。その各国の攻防を描く ~東北からの疾風、前燕の中原侵攻~⑦ 慕容仁の乱を平定

前燕

こんにちは。

前回、慕容皝の弟、慕容仁が反乱を起こし、宇文部や段部などもこれに呼応し、慕容皝に危機が訪れたところまで書きました。

今回は、慕容皝が周辺勢力の包囲を退け、慕容仁の乱を鎮圧するまでを書きます。

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宇文部、段部との戦い

慕容皝はまず、宇文部や段部などの周辺部族に攻撃をしかけます。

334年、司馬の封弈に兵を率いさせ、白狼にいた鮮卑の木堤を攻撃させ、また揚威将軍の淑虞に平堈にいた烏桓の悉羅を攻撃させ、殲滅させます。また、材官将軍の劉佩に乙連を攻めさせますがこれは失敗に終わります。

司馬 封弈

鮮卑攻撃の将、司馬の封弈という武将は、今後の慕容皝が進めていく戦いで軍の主力を努め多くの功をあげていく人物です。ちなみに司馬という役職は軍を司る役職で今で言う軍務大臣にあたります。慕容皝軍の大将軍と言ってもよい武将です。

段部による侵攻と、柳城守将石琮の奮戦

周辺部族たちも反撃に出ます。

段部の段遼が徒河に攻め込みますが、これは慕容皝の武将、張萌によって撃退されます。

また段遼の弟の段蘭と、段部の亡命していた慕容翰とともに柳城に攻め込んできますが、都尉の石琮の活躍により撃退します。

しかし、10日程度あとに段蘭と慕容翰は再び柳城を包囲します。

これを聞いた慕容皝は、寧遠将軍の慕容汗と封弈に援軍に向かわせます。

慕容皝は慕容汗に、敵の士気は高いので、万全を期し、兵が揃い、陣形が整った上で進軍するように伝えます。しかし、慕容汗はゆっくりと進軍など性格上できる人物ではなく、千騎あまりを先鋒として速攻をかけます。ともに軍を率いている封弈は止めますが、慕容汗は聞き耳をもちません。案の定、段蘭に敗退し多くの死者を出してしまいます。

段蘭はこの勝利により柳城への攻城を再開し、梯の使用や地下道を掘って攻めるなどの猛攻をしかけます。守将の石琮は自ら兵士たちを統率し打って出て、段蘭軍を破ります。1500もの首を取り、段蘭は逃げ帰りました。

この年に東晋の成帝が使者を遣わし、慕容皝を鎮軍大将軍、平州刺史、大単于、遼東公に任命しようとします。

慕容皝の攻勢

そのあいだも、慕容皝の慕容仁の乱への討伐は進みます。

慕容皝は自ら、遼東に攻め込み、襄平を落とします。慕容仁の配下を降伏させ、慕容仁が任命した守将を斬り、遼東の名のある一族を棘城に移動させ、和陽、武次、西楽の3県を設置して帰還しました。

335年になると、慕容皝は封弈を派遣し、宇文部の別部である渉奕于を攻めさせ多くの捕虜を獲得し帰還します。渉奕于は騎兵を率いて追撃してきますが、渾水において戦いになり、渉奕于を返り討ちにします。

凍結した海を渡り慕容仁を急襲。慕容仁の乱を平定

慕容皝は慕容仁と決着をつけるべく、凍った海を渡り、慕容仁を急襲する作戦を立てます。周囲は危険すぎると反対しますが、慕容皝は、昔は凍ることなどなかった海が、慕容仁の反乱後は3度も凍っていること、漢の光武帝が滹沱水が凍ったのを渡り天下統一の大業をなしたことなどを上げ、天が望んでいることで、自分の考えはもはや決まっていると家臣に宣言し、作戦を実行に移します。

そして、三軍を率いて出陣し、昌黎より凍結した海を渡り進軍し、慕容仁の本拠地平郭の七里前まで到達します。慕容皝の軍がすぐそばまで迫って来ていることをようやく知った慕容仁は狼狽し出撃しますが、浮足立った状態では勝つことができず、とうとう慕容皝に捕らえられ処刑されます。

こうして、2年以上続いた慕容仁の乱も鎮圧され、慕容部の内乱は終結します。

これにより、周辺部族との戦いに集中できることになった慕容皝は西の宿敵段部との全面対決にのぞみます。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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