吉川興経の変転
吉川家の当主興経は尼子と大内の間の変転激しく動いていました。
吉田郡山城の戦いでは尼子方につき、尼子が敗戦すると一転大内に寝返り、月山富田城の戦いでは大内方として富田城に攻め込みながら、途中で尼子方に寝返りました。
大内義隆はこの吉川興経の行動に怒り、吉川氏の領地の大朝(山県郡北広島町)を元就に与えますが、元就は吉川興経のために大内との間を斡旋して、大朝の土地を復帰させてやりました。
この主君の所業を見ていた、吉川家の家臣は興経の不信感をつのらせます。
吉川家のクーデター
そして、吉川経世や森脇祐有が中心になり、興経を隠居させ、元就の二男元春を迎え吉川家を継がせるという工作がはじまりました。
天文14年(1545年)以降に本格的に進んでいき、次の条件が両家間で決まっていきます。
・興経が隠居の場所は吉川領内
・興経の実施の千法師は元春が養育する
・元春に男子が生まれ、興経に女子が生まれたら結婚させる
この条件を興経ものみ、天文16年(1547年)2月には正式に縁組が成立します。
吉川家乗っ取りの謀略
こうして、興経親子が日野山城を退去したあと、元就は謀略を開始します。
興経親子を吉川領ではなく、毛利領の深川に幽閉をしてしまいます。
そして、吉川家臣の領地を元春付けの毛利家臣に与えるなどし、体制を固めた上で、天文19年(1550年)になってようやく元春は日野山城に入城します。
このようにすべての体制を整えた上で、元就は興経親子を殺害します。
一連の流れをみると冷酷極まりない吉川家乗っ取りで、元就の謀略の恐ろしさであります。
しかし、この乗っ取り劇のあとも吉川家家臣から反発がほぼ出てないことから、興経の人望なさを見込んでの計算上の謀略だったのでしょう。
毛利両川体制の成立
元春の日野山城入城のあと、沼田と竹原の両小早川家の合併も行われ、元就の吉川、小早川家の乗っ取りは完成します。
これにより、元就は山陰方面の吉川、山陽方面の小早川を実質的に手に入れ毛利の勢力はさらに拡大したのでした。
毛利両川の誕生です。
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