再び安芸への勢力浸透を試みる大内と尼子
大内氏と尼子氏がそれぞれの問題に対処していて、安芸の国に大きな圧力がかかってこない間に、安芸での勢力浸透に力を入れてきた元就ですが、そのつかの間の時間も終わりをつげます。
大内氏は、北九州で大友氏と対立していましたが、天文7年(1538年)に将足利義晴の斡旋で大友氏と和平を成立させます。そして、再度安芸方面への進出をはかります。
尼子氏は、塩冶(えんや)興久の反乱を鎮圧して、そのあとは、備中、美作、播磨方面に進出していましたが、大内氏の安芸進出に対抗しようとします。
こうして、安芸の国が再び大内・尼子の両勢力の対決の舞台となっていきます。
吉田郡山城の戦いのきっかけとなる平賀氏の内紛
ちょうどこの頃、安芸高屋保(東広島市)の平賀氏で内紛が起こります。
平賀氏はもともと、尼子経久が東西条に攻めてきたときに、尼子方についていました。しかし、尼子軍が撤退したあと、平賀弘保が大内方に復帰したにもかかわらず、その子供の興貞は尼子方へ留まりました。
そして、そのまま親子対立となり武力衝突するまでに発展していきます。大内氏は親父の弘保に援軍を送り、興貞が籠もる頭崎城を攻めます。
安芸国内の国人領主たちも、大内方と尼子方に別れて対立していきます。主な名前を上げると次のようになります。
●大内方(弘中氏、毛利氏、平賀氏【弘保】、竹原小早川氏)
●尼子方(武田氏、沼田小早川氏、平賀氏【興貞】、吉川氏)
天文9年(1540年)6月に毛利勢が主力を務める大内方の軍が、頭崎城西方の造賀保で平賀興貞の軍を破り、頭崎城は落城寸前にまで追い込まれます。
尼子詮久、安芸へ出兵
この安芸の情勢を見ていた尼子の当主となっていた尼子詮久(のちの晴久)は、これ以上大内方有利の状況にさせないため、侵攻していた播磨から引き返し、頭崎城への救援を決定します。
そして、3万の兵を率いて大内方の主力である毛利氏の本拠、吉田郡山城へ攻め寄せてきました。安芸の国人領主の中心だった毛利氏の本拠地を攻めることにより、頭崎城への圧力を弱めようとします。
こうして毛利元就の生涯でも最大級の危機であり、毛利元就の名を知らしめることにもなる、吉田郡山城の戦いが開戦します。
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