近隣の国人領主との関係を深める
毛利元就は、毛利氏の領地と隣り合う領地を支配し、安芸と石見にまたがる有力国人領主の高橋氏を滅ぼし、勢力を一気に広げます。
ちょうどこのとき、大内、尼子の二大勢力はそれぞれ安芸以外の方面に力を入れないといけない状態で、安芸の状況に干渉することができませんでした。
その隙をつき、元就は近隣の国人領主たちとの関係をより強くしていきます。
熊谷氏との関係強化
まずは、可部の高松城(広島市安佐北区)の熊谷氏です。
熊谷氏はもとは武田氏に属しており、元就とも有田城攻防戦で戦い、当主の元直が毛利軍に討たれるなど、毛利氏とは敵対していました。しかしその後武田氏との関係は悪くなり、毛利との関係を強めようとしました。
元就はこの要請を受け入れ、熊谷氏との関係を強化していきます。
これよりだいぶあとになりますが、熊谷信直の娘を二男の元春の嫁に迎えます。
この結婚に関しては逸話があります。
熊谷信直の娘は、安芸国内でも有名な「御容色が劣りし女」だったそうで、元就も心配していたようです。
しかし、元春は「妻をもらうのであって、その容姿をもらうのではない」と言い、さらに「容姿が悪いのであれば、なおさら自分に尽くしてくれるであろうし、その親である熊谷信直も普通の百倍、自分を妻の婿として大事にしてくれるはずだ」と逆に元就を説得します。
熊谷信直と娘も元春の誠実な人柄を知って、結婚を承諾します。
この娘は新庄局と呼ばれ、元春との間に四男二女をもうけ、円満な家庭を築いていきます。
ちなみに二男の広家は早逝してしまう兄元長の変わりに吉川家を継ぎ岩国藩の始祖となります。
宍戸氏との関係強化
天文3年(1534年)正月には、長い間毛利氏とは対立し、毛利氏のすぐ隣に領地を持つ宍戸氏との関係を改善していきます。
元就は自ら甲立五龍城に宍戸元源を訪ね、年賀の挨拶を述べ、さらに嫡孫の隆家と元就の長女との婚約を成立させています。
この関係改善は、備後の山内氏とも良い関係を作ることに発展していきます。
隆家の母は、山内氏の出身でその夫の元家が早くに亡くなり、隆家を山内氏の城の甲山城で生み育てていました。それを知った元就は口羽通良を通して、山内直通に近づき、天文4年(1535年)に盟約を結びました。
大内氏との連携も強化していく
上記のように、熊谷氏、宍戸氏、備後の山内氏と近隣の国人領主たちとの関係を強化して安芸の国人領主の中でも頭一つ抜けた存在になった元就ですが、それに加えて、従属先の大内との関係もこれまで以上に強くしていきます。
天文6年(1537年)に長男で嫡子の少輔太郎を大内氏の本拠地山口に送っています。これにより大内氏との連携をより強化するためであり、安芸の工作を活発にやっていた時期なので、大内氏にあらぬ疑いをかけられないためとも思われます。
少輔太郎は山口で大歓迎され、大内義隆が烏帽子親になることにより元服をし、「隆元」を名乗ることになります。「隆元」の「隆」は大内義隆からもらいました。
隆元も足かけ5年に渡る山口滞在で、義隆やその他大内の重臣たちと交友を深め、毛利と大内の友好に大きな役割を果たします。
安芸が安定している間に元就は、毛利の勢力と立場の強化を行ってきましたが、その安芸が再び、大内と尼子の抗争の舞台となっていきます。
そして、尼子軍が毛利の本拠吉田郡山城に攻め寄せてくる、「吉田郡山城の戦い」が起こります。
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