前趙(漢)国内の乱れ
316年11月、長安を落とし、愍帝はじめ西晋の朝臣を平陽に連れ去り西晋を完全に滅ぼした前趙(漢)は名実ともに華北の覇者になりました。しかしこの頃には前趙(漢)内には、いくつもの矛盾や問題がはらんでおり、破滅への道を進んでいるところだったのです。
その問題は下記のようになります。
①領土問題
西晋を滅ぼす段階で、前趙(漢)の支配地は、山西・河北・山東・河南・陝西に及んでいましたが、各地域には、侮りがたい勢力をもつ勢力が存在していました。河北北部に王俊、山西北辺の晋将劉琨などです。また、前趙配下でありながら兵権を持ち半ば独立状態の武将も存在していました。襄国の石勒や、山東の王弥の武将であった曹嶷などです。この勢力は石勒によって平定されていきますが、これにより石勒の勢力が巨大になっていき、こののちの石勒の独立に至ります。
②後宮問題
劉聡はこの頃、後宮の大拡大を行い、3人の皇后と皇后の璽綬を佩する者が7人に及ぶという乱脈経営に陥ってしまいます。その結果、外戚や宦官が政治に介入してきて著しく政治が乱れてきます。そして317年には外戚・宦官が劉聡の息子の一人劉粲をそそのかし、皇太子劉乂一派を討滅し皇太子の地位を奪います。
③土木工事と飢饉
劉聡は国力を超える宮殿を平陽に建築し、後宮の拡大をはかります。この拡大が上記の後宮の乱れにもつながります。また、同時期に平陽地方は飢饉に陥りこれも前趙(漢)の国力を落とします。
劉聡の病死とその後の政変
このような状態のときに、318年7月劉聡は病死します。そして上記の劉粲が即位します。しかし8月に外戚の靳準は劉粲以下、平陽の劉氏を殺害して漢天王を自称して東晋に降伏を申し入れます。このとき、「漢」は一度滅亡します。
しかし、10月に長安に駐留していた劉曜が蒲阪(山西省)で即位、12月に平陽に攻め込み靳準を滅ぼします。そして319年に長安に遷都をし、国号を「趙」と改めます。ここでようやく「趙」という国名になります。元々、西晋を打倒して漢を継ぐ意味で名乗った「漢」という国名でしたが、西晋が滅んだ今となってはその意味もなく、はっきりと北族の国ということを主張するようになりました。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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