こんにちは。
五胡十六国時代で英主と言えば、前秦の苻堅です。
諸民族の宥和を目指し、傑物・王猛を宰相にし、彼とともに前秦の富国強兵を成し遂げ、華北統一に成功した五胡十六国時代の代表する人物です。
前秦はその後、中華統一を目指して東晋に侵攻しますが、383年淝水の戦いでまさかの大敗北を喫し、前秦という国は分解・崩壊に向かってしまいます。(苻堅はその後、闇落ちした末にくびり殺される)
基本、読後感最悪な出来事しか起こらない五胡十六国時代ですが、善政を行い、周囲の反対を押し切ってまで民族の宥和を進めた英雄が天下統一目前で、木っ端微塵に砕け散る前秦の物語は、その中でも特大の悲劇でもあります。
今回は、悲劇的な最後を迎えた前秦という国がどのように建国されて行ったかまでをみたいと思います。
後趙という、当時の華北の覇権国家が崩壊するときに自立する前秦の建国は、五胡十六国時代に何度かある、大乱から雨後の竹の子のように国ができる建国物語の一つになります。
前秦の建国について書いていくことにより、一般書には詳しく書かれていない五胡十六国時代の建国物語の詳細の一部分や、華北の東エリア(中原)から西エリア(関中)に攻め込むときにどのようなルートを通るのか、そのときに地形がどのように影響してくるのか、などのことが解説できればと思います。
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五胡十六国時代前半の氐族とその頭・苻洪
氐族
前秦を建国し苻堅を輩出した苻氏は、五胡と称される民族の一つ、氐族です。
氐族は、元々は甘粛省東南部、陝西省西南部、四川省北部あたりに居住しており、早い段階で農耕も行っていたようです。
前漢時代には、長安がある関中盆地を横断し黄河に流れ込む渭水の上流諸郡に移り住むようになりました。
前漢時代には、漢人との関係も安定していたようですが、後漢末頃から、三国志で有名な馬超と組んで曹操と戦ったり、曹魏によって強制移住され曹魏内に内包されたり、蜀漢に取り込まれたりと魏蜀の間で揺れ動きました。
族長・苻洪
時は下り、苻堅のおじいさんの苻洪(当時は蒲洪と名乗っていたので、以下蒲洪と表記します。)の時代になると、略陽(長安の西、今の甘粛省・泰安市)に居住していました。
ちなみに、晋書によると蒲洪さんの家の池に蒲(がま、沼地にはえる多年草)が生えており、その蒲が長さ五丈あり、5つの節があって竹の形のようだったことから、近所の人たちがこの家を蒲家と呼んだ。ということから蒲という姓になったそうです。
蒲洪は、永嘉の乱時に氐族の盟主になり、318年に前趙に帰順します。
その後前趙が後趙に滅ぼされるときに、後趙の将軍であった石虎に降り、重用されます。
のちに石虎が石世を廃して、後趙君主になったときに蒲洪は、関中の豪族や羌族などを都の鄴周辺に移すことを石虎に提案しており、石虎もこれを賛成し、蒲洪は龍驤将軍、流人都督となり部衆を率いて、河北の枋頭に駐屯します。
その後も後趙の武将として戦功を挙げ、石虎から信頼されますが、当時同じく後趙の武将だった冉閔からは妬まれ、「蒲洪のやつ今のうちに殺したほうがいいですよ。」と何回か石虎に告げ口されます。
かなり、優秀な人物だったようです。
後趙国内が乱れている中、枋頭で割拠
そうこうしているうちに石虎が没し、後趙は内乱が勃発し、混乱しているなか、蒲洪は枋頭で割拠し衆10数万をかかえる大所帯になります。
このあたりから、同じく西のほうから移動して後趙の武将になっていた姚弋仲の勢力とも争いだし、どちらの勢力も西への帰還を狙い出します。
350年1月には姚弋仲の息子・姚襄が率いる軍が攻めて来たのを迎撃して3万の首を挙げるなどします。
のちの氐族の苻氏(前秦)と羌族の姚氏(後秦)の戦いは、このときからスタートしています。(本格的にバトル開始するのは383年の淝水の戦いののち)
苻洪、暗殺される
そして、蒲洪は、姓を「蒲」から「苻」に変えて苻洪と名乗り、大将軍、大単于、三秦王を自称します。
このころ苻洪は、長安から鄴に戻ろうとしていた後趙の武将・麻秋を捕らえて配下にしていましたが、苻洪の勢力を乗っ取ろうとたくらんだ麻秋によって鴆毒という鳥の毒によって暗殺されてしまいます。
苻洪は、息子の苻健に「お前らでは中原を手に負えないだろうから、関中を目指すのじゃ!」というえらそうな遺言を残し、死んでしまいます。
これにより、苻氏の勢力は苻健が継ぎました。(麻秋は苻健により速攻で斬られました。)
苻健の関中侵攻
苻氏の勢力は、350年8月、苻健が跡を継ぎ、苻洪の遺言通り関中を手に入れることを勢力の基本方針とします。
華北大乱
この350年の1月~8月にかけての華北の状況は、石虎の死による後継者争いに端を発する後趙の内乱が勃発していました。石氏の後継者争いにともないその武力により後趙の実権を握った冉閔が後趙君主の石鑑を殺し冉魏を建国します。それに対抗しようとする勢力が華北各地で割拠し、華北大乱と呼ばれるような状況になっていました。(苻氏の勢力や、姚弋仲の勢力もその一つです。さらに後趙も残党が残っており完全には滅びていません。)
そのようなとき、関中では、後趙の部将の一人杜洪という人物が長安で割拠し冉魏(後趙)から自立をし、東晋の征北将軍、雍州刺史を自称します。
苻健はこの杜洪の勢力を倒し関中に入りそこで自立することを目指します。
関中侵攻を杜洪にばれないようにふるまう
苻健は自分たちが関中を狙っていることを、杜洪にばれないようにしよとし、後趙から官爵を授かり、本拠の枋頭に宮殿を作り、さらに民衆に麦の種を蒔かさせ、従わないやつは斬り殺すなどのことを行います。そのように枋頭定着計画を進めてますよというふりをし、関中侵攻の意図などありませんということをアピールします。
苻健、関中侵攻を開始する
ほんとに騙せたかどうかは別として、関中の杜洪を目をくらました上で、350年8月、苻健はその勢力をあげて関中侵攻を開始します。
将軍・魚遵を先鋒にし、盟津(孟津)から黄河を浮き橋を作り渡河し軍を進めます。
ここで盟津と言われているのは、黄河の有名な渡河地点の孟津のことです。
さて、苻健のプランは二路より関中に侵攻するというものでした。
弟で輔國將軍の苻雄に5千の兵を率いさせ潼関より関中に侵攻させようとし、甥で揚武將軍の苻菁に7千の兵を率いさせ軹關より関中に侵攻させようとします。
苻雄は、こののち前秦を華北統一に導く英主・苻堅様の親父です。苻健の関中侵攻の一方の主力を努め、関中攻略後も建国直後の前秦をほぼほぼ一人で支える五胡十六国時代でも有数の名将の一人です。
苻健は、苻菁と分かれるときにその手をとり言います。
「もし事が成らなければ、お前は河北で死に、私は河南で死ぬ。再び生きて会うことはないであろう。」
苻健は、このように今生の別れをし、黄河を渡ったあと橋を焚き、まさに背水の陣、決死の覚悟で先行している苻雄のあとを追い関中を目指します。
二路侵攻作戦
ここで苻健がとった関中への二路侵攻作戦について書いておきます。
中国は昔からおおざっぱに言うと2つの中心エリアがありました。
その2つとは、東の洛陽がある中原と、西の長安がある関中です。
周の時代から、五胡十六国時代くらいまでは、大勢力や統一王朝の本拠としては、上記の2つを行ったり来たりしています。
洛陽などがある中原(さらに東の鄴がある華北平原も含める)から関中に軍が移動するには、地形的な制限(太行山脈や黄河や秦嶺山脈の東部部分)がありいくつかのルートに進軍路が限定されます。
今回苻健が取ったのはいくつかあるルートのうちの2つです。
①洛陽-潼関ルート
まず魚遵、苻雄、そして苻健自らが進んだのが、
孟津で黄河を南に渡り、邙山を超え洛陽盆地に入り、そこから西へ進み、洛陽西の山地の道を通り、新・函谷関を抜け陝城(今の三門峡市)がある弘農郡に出て、そこからさらに西へ進み、戦国時代の秦の国門(キングダム風に言うと)旧・函谷関を過ぎて、北から流れて来た黄河が秦嶺山脈にぶつかり東へ屈曲する地点にある潼関に到達するルートです。
この潼関は黄河と秦嶺山脈がせまっている狭い部分を扼す、東から関中に向けて進んで来た軍に対する最後の砦的な関です。ここを破ると征西の軍は関中に入ることができます。
②軹關-蒲坂ルート(河內-河東ルート)
もう一つが、
枋頭から黄河の北を西へ進み、太行山脈と黄河に挟まれたエリア・河內をさらに西へ進み、太行山脈を抜ける道「太行八徑」のその1・「軹關徑」を通り河東(南流する黄河の東側のエリア)へ出て、そこから南西へ進み黄河の有名な渡し場の一つ蒲坂で黄河を西へ渡り、渭北(関中を東へ流れ黄河へ流れ込む渭水の北エリア)で関中に入るというルートです。
このルートは、軹關徑での太行山脈超えと、蒲坂での黄河渡河がポイントになります。
軹關徑は、河內の今の済源市あたりから西へ進み太行山脈に入り、山西省の臨汾盆地に出ます。軹は車のわだちの跡という意味で、軹關徑という名はたった一台の車が通過できるほどの幅の道しかない通路から来ています。太行八徑の中でもかなりの険路であったようです。
蒲坂は、上にも書きましたが古来からの有名な黄河の渡し場で、太原がある幷州方面、平原(今の臨汾)がある河東方面から関中に入るときは基本この渡し場を使うことになります。中国史上の中でも重用なチョークポイントの一つです。すぐ東にある蒲州故城違址とともに今も観光地として残っており、ここから60トンの鉄の牛が出てきたそうです。
杜洪、潼関で迎撃するも敗れる
苻健の勢力が関中目指して侵攻してきたことを知った杜洪は、書を苻健に贈り侮辱します。そして部将の張琚の弟・張先に3千の兵を率いさせ潼関の北で苻健軍を迎撃しますが大敗してしまいます。
張先はスタコラサッサと長安に逃げ帰ります。杜洪は関中の衆のことごとくを収集し、苻健に対して徹底抗戦を行おうとします。
杜洪の弟の杜郁が、降伏したほうがよいよと杜洪に言いますが、杜洪は聞く耳を持ちません。それを聞いた杜郁はさっさと苻健に降伏してしまいます。
苻健の関中攻略戦
潼関を抜き関中に入った苻健は、苻雄に命じて渭北の平定に向かわせます。
このような苻健軍の動きを見ていた関中各地にいた氐族や羌族の酋長たちは、先に杜洪からの収集命令が来ていましたが、彼らはその杜洪からの使者を斬り捨て、子供を苻健に人質に送り降伏することを申し込みます。
さらに苻健の部将の苻菁と魚遵も関中内の侵攻を進め、彼らの進んだところの城や集落はことごとく苻健に降伏しました。
これを聞いた杜洪は恐れおののき、長安に籠りこれを死守しようとします。
9月に苻菁が杜洪の部将・張先と渭北で戦い張先は敗北、捕らわれてしまいます。この戦いの結果により、三輔(関中の別名)の郡県や砦などはことごとく苻健の勢力に降伏しました。
10月に、跡から続いて来た苻健の軍も長安に至ります。
ここまでの戦況をみて、杜洪と張琚は長安防衛をあきらめ、長安の西の司竹に逃げます。
11月になって苻健はようやく長安に入城します。
これにより苻健は長安攻略に成功し、関中に根をはることになります。
どうも、関中の民衆が晋を懐かしむやつが多く、そこで苻健は使者を東晋の建康に送り関中を取ったことを伝え、さらに桓温とも仲良くなることに成功します。この東晋とのやり取りによって、苻健の評判は爆アガリし、秦、雍のエリア(いわゆる関中)の胡人、漢人たちはみんな前秦の味方につこうとしました。
前秦建国
明けて351年1月に苻健は、臣下たちに推され、はじめは拒否するふりをしていましたが、「そんなに言うならしょうがねえなー」と、天王、大單于に即位し、大秦国の建国を宣言します。
ここに、前秦が建国されました。
先にも書いたように、前秦はこのあと苻堅様の代に強国への道を進んでいくのですが、この建国直後から、思い切り産みの苦しみを味合うことになります。
その中の一つに、354年の桓温の第一条北伐があり、この戦いによってせっかく建国した前秦は下手すりゃ滅びるんじゃないかという存亡の秋(とき)を迎えますが、名将・苻雄のまさに命を懸けた戦いぶりにより救われます。
そのあたりの話は、また別の機会に書こうと思います。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)
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