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五胡十六国時代、石勒が建国して華北の主要エリアの統一を成し遂げた後趙では、石勒の死後、大魔王・石虎が簒奪をし勢力を広げるも、国内や朝廷は混乱状態になっていきました。
その石虎の死後、石世が跡を継ぎますが、後趙国内では君主の座を狙った内乱が起きます。
まず石遵が石世を廃し、君主の座を奪うも、国内の石氏一族の反乱は収まらず、今度は石鑑が石遵を廃し、後趙の君主となります。
この一連の内乱の中で、石閔(冉閔)はキープレイヤーとなり、その圧倒的な武力で石遵、石鑑の即位を原動力になります。
しかし、その石遵、石鑑も石閔(冉閔)の化け物じみた武を恐れ、即位した瞬間に石閔を誅殺しようと必死になりますが、すべて石閔にちぎって投げられ失敗に終わります。
石鑑は、3度の石閔暗殺計画を発動しますが、すべて石閔に跳ね返されてしまいます。(自分が主犯であるとバレないように、すべて実行犯のせいにした。)
こうして、石氏一族が弱体化していき、後趙という魔の国(とくに東晋にとっては災厄でしかない国)が、石閔(冉閔)の手に落ちるときがやってきました。
※冉閔はこのとき「石閔」と名乗っていますので、以下では石閔と表記します。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
石虎のバカ息子リスト
前回同様、争い続ける石虎の息子たちを一覧にしておきます。
①~④は、石虎以後、君主になった順です。
この回までに死去しているのがわかるやつは横線入れてます。
●石邃(初代太子、石宣と石韜を憎み殺害も考え、さらに石虎にも反抗的な態度を取り、処刑される)
●石宣(2代目太子、石韜を殺したので石虎から処刑される)
●秦公 石韜(石虎から寵愛されていたので、調子にのって石宣に殺される)
↑ここまでが、石虎死去以前に、冥府に旅立っている奴ら
↓下記のピンクが石虎死後、争いあったやつら(今後の動きも簡単に記載しています。)
③義陽王 石鑑(クーデターによって石遵から皇位を簒奪する)
●沛王 石沖(石遵に反抗して攻めてくるも石閔と李農に撃退され処刑される)
②彭城王 石遵(クーデターによって石世から皇位を簒奪する。石鑑のクーデターによって殺される)
●楽平王 石苞(石遵に反抗して攻めようとするも諸事情で攻めることができなくなり、鄴に召喚される→その後石閔暗殺に失敗し、石鑑によって処刑される。)
●燕王 石斌(石虎死後、劉太后と張豺によってはめられ、殺される)
●梁王 石挺
●汝陰王 石琨(後趙の権力を握った冉閔に対抗する)
④新興王 石祗(石鑑が冉閔に殺されたあと襄国で即位、冉閔に対抗、後趙最後の君主)
●楽安王 石炳
①斉公 石世(石宣処刑後、3代目太子になり、石虎の跡を継ぐが、石遵のクーデターで廃位)
その他
●石瞻(冉良)(石虎の養子、冉閔の父)※もちろん上記の息子たちより年上。だいぶ前に死去
魔王即位のための血の儀式、胡人20万人を虐殺
石閔、石鑑を幽閉する
3回に渡る石閔暗殺計画は失敗に終わり、失敗するたびに実行犯に罪をなすりつけていた石鑑ですが、まあバレバレですよね。
石閔は、石鑑をお守りする的な名目で、御龍観というところに石鑑を閉じ込め、数千の兵で監視します。食事も上から吊るして与えるような軟禁状態にしました。
石閔、20万人を虐殺
さて、石鑑軟禁後、石閔は城内の人間に対して下記のように伝えます。
「最近、孫伏都と劉銖が謀反を企てたが、その一党はすべて誅滅した。このことは、善良なる諸君たちには関係ないことだ。本日以後は、我らと心をともにするものだけここに残り、それでないものたちはここを去ってもらってかまわない。城門は開けたままにしておこう。」
なかなか格好良いことを言っておるな石閔、と思ったのですが、
この布告のあと、鄴の百里内の漢人はみんな入城して来ましたが、鄴城内の胡人や羯族(石氏と同じ族)は鄴を去ろうとし、その人々たちで城門がふさがってしまったといいます。
石閔はこの様子を見て、「胡人のやつら、まったくわしに従う気がねえな。殺しちまうか。」と決断します。こいつもやはり石氏に劣らずクソです。
石閔は、城内外に命じます。
「趙人(漢人)たちよ。胡人の首一つ獲り鳳陽門に送ったものには、文官なら位を三等進め、武官なら牙門にしよう。」
要するに、胡人の首を持ってきたものは、全員昇進させようという布告を行います。
これにより、わずか1日で数万人が首を斬られます。
また、石閔は、みずから漢人を率いて胡人・羯族を貴賎、男女、長幼の区別なく斬りまくります。
これによる死者は20万人を超え、城外は死体で埋まり、ことごとく野犬や山犬や狼の食することになったといいます。
さらに、
鄴周辺の胡人住む集落にも漢人に命じて攻撃させます。さらに鼻が高くヒゲが濃いものも胡人と間違われ無差別に殺されたと言います。
まさに五胡十六国時代でも最大級の虐殺劇であり、ほぼ民族浄化です。
これにより石閔は完全に魔の道に堕ちてしまいました。魔王即位のための、血の儀式はこうして終了します。
後趙内で、群雄が割拠し大乱世となる
鄴の胡人・羯族のことごとくを根絶やしにし、鄴の実権を完全に握った石閔ですが、ここでさらに、鄴から石氏の匂いを消してしまおうとし、350年1月、「趙李を継ぐ」という予言の文があったことを根拠とし、国名を「趙」から「衛」に変え、自分の姓も「李」に変えてしまいます。
これにより、石閔改めて李閔となります。
この李閔(冉閔)の権力奪取により、石氏一族の残党や、後趙の臣たちは、後趙国内に散らばり割拠しはじめます。
後趙内戦国乱世がはじまります。
冉閔嫌いの面々が各地で割拠
太宰の趙庶、太尉の張舉、中軍將軍の張春、光祿大夫の石岳、撫軍将軍の石寧、武衞將軍の張季などの後趙の臣や、公侯、卿、校、龍騰等1万を超える人々が李閔(冉閔)のもとでは嫌だと襄國の石祗の元へ出奔します。
また、汝陰王の石琨は冀州へ行き、撫軍將軍の張沈は滏口へ、張賀度は石瀆、建義將軍の段勤は黎陽、寧南將軍の楊羣は桑壁、劉國は陽城、段龕は陳留、姚弋仲は灄頭、蒲洪は枋頭へそれぞれ数万ずつの兵とともに赴き、そこで割拠をします。
「だれが李閔(冉閔)の味方をするかよ」、とばかりに河北エリアで群雄割拠しはじめ、後趙国内は割拠勢力盛りだくさん状態になります。(後趙自体はほぼ死に体ですが。)
長安から王朗、麻秋が引き返して来る
さて、東晋の司馬勳が関中に北伐を仕掛けてきたとき、長安防衛をしていた王朗、麻秋は、その後長安から洛陽に向かいました。ここで麻秋は李閔(冉閔)から指令を受け、王朗とその部下の胡人千人余りを誅殺しようとします。王朗はやばいとばかりに襄國へ逃走し、麻秋は意気揚々と鄴に帰ろうとします。
しかし鄴への途上で蒲洪が息子の蒲雄(苻堅様の父)に軍を率いさせ麻秋を迎え撃ち、麻秋を捕らえます。そしてなぜか麻秋は蒲洪の元で軍師将軍に任命されます。
襄國の軍、李閔(冉閔)討伐の兵を挙げる
襄國は後趙の元首都で、今は石祗が封ぜられており、この襄國が鄴にいる李閔(冉閔)討伐のための一大拠点になります。
李閔(冉閔)、千騎で7万の軍を破る
350年1月、冀州で割拠した汝陰王・石琨と、襄國へ逃げていた張舉と王朗は7万の兵を率いて、鄴の李閔(冉閔)討伐へ向かいます。
この報を聞いた李閔(冉閔)は、わずか千余りの兵で出陣し、鄴城の北で石琨たちの軍と激突します。この戦いは、
李閔(冉閔)の最強の武力を惜しげなく発揮する舞台となります。
李閔(冉閔)は両刃矛という武器を手に持ち、騎馬で戦場を駆け巡り、出会う敵をことごとく屠っていき、なんと3千の首を一人であげます。一騎当千ならず一騎当三千の最強の名に違わぬ活躍をし、石琨たちの軍を大破しました。
李閔(冉閔)は返す刀で李農とともに今度は3万の兵を率い、張賀度がいる石瀆の攻撃に向かいます。
石鑑、李閔(冉閔)に殺される
さて、鄴で軟禁状態にあった石鑑でしたが、李閔(冉閔)と李農が張賀度討伐に向かったことを知ると、350年閏月に鄴を奪還しようと動きます。
しかし、石鑑の宦官があっさりこのことを李閔(冉閔)にチクってしまいます。人望なさそうなのでしょうがないですね。
石鑑の反抗を聞いた、李閔(冉閔)と李農は急ぎ鄴に戻り、石鑑を位を廃し、速攻で処刑してしまいます。そしてその勢いで李閔(冉閔)は、石虎の孫28人も処刑し、鄴にいた石氏を文字通り族滅させます。
資治通鑑の胡三省注では、これによって後趙は滅亡と書かれていますが、まだ襄國には石祗などの後趙の残党が残っており、今後は鄴の李閔(冉閔)vs 襄國の石祗の戦いになっていきます。
李閔(冉閔)、魔王へ即位。冉魏の建国
鄴の胡人20万の虐殺という血の儀式を終え、石鑑などの鄴にいた石氏一族をことごとく滅ぼした李閔(冉閔)は、ついに魔王即位のときを迎えます。
司徒の申鍾等が李閔(冉閔)の即位を勧めます。
ここで李閔(冉閔)は李農に位を譲ろうとします。本気なのか茶番なのかよくわからない行為ですが、李農は当然固く固辞します。
そのあと、李閔(冉閔)は「晋朝がまだあるのに即位するのはちょっとなあ」的な遠慮なのか茶番なのかよくわからないことを言い出しますが、これも家臣たちから「晋朝もう弱ってますから、即位していいでしょ。」と諭され、
350年閏月、皇帝に即位し、国号を大魏と定めます。
魔族の勇者・石勒が建国し、大魔王石虎が拡大した「魔の国」後趙は滅亡し(残党は残っているが)、漢人の勇者・冉閔が闇落ちし、とうとう魔王として即位しました。
しかし、しょせん魔王は滅びる運命にあります。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)
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