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北涼の沮渠蒙遜が、河西回廊を統一したことで、北涼の東隣の隴西に国を構える西秦との本格的な戦いがはじまります。
421年の西涼滅亡後すぐから、422年と続けて戦いが起こり、攻め込んだほうの北涼が一敗地に塗れます。
相変わらず攻めたときの戦は弱い北涼と沮渠蒙遜ですが、このあと423年以降も西秦との戦いは続きます。
しかしこのあとの戦いは、中原に覇を唱え始めている北魏と、関中を獲得した夏の両大国との関わりも関係してきます。
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北涼、唐契の乱を平定する
423年、沮渠蒙遜は、嫡子の沮渠政德に兵を率いさせ、北涼の晉昌太守であり前年に反乱を起こした唐契を再度攻撃させます。
この攻撃により晉昌は陥落し、唐契は一族とともに伊吾に逃げ、柔然に臣従します。伊吾は現在の哈密(クルムもしくはハミ)になり、敦煌の手前から分かれて東北に進む道をしばらく行ったところに位置します。このあたりは柔然の影響が強かったのでしょう。
このあと、柔然が北涼に侵攻来ており、沮渠蒙遜は、沮渠政德に迎撃させますが、沮渠政德は軽騎でこれに対応したため、柔然によって討ち取られてしまいます。
これにより、沮渠蒙遜は跡継ぎを沮渠興国を立てるということになります。北涼にとっては、太子が死んでしまう痛恨事でした。
西秦、北魏と結ぶ
さて、423年頃の河西エリアの状況は西秦にとって圧倒的に不利な状況になっていました。
隴西に国のベースを置く西秦は、北の河西回廊は北涼が統一し攻められ、西は吐谷渾と連年に戦っており、東には関中を制した夏とも敵対していました。
いわば3国から包囲されているという危険な状態だったのです。
西秦君主・乞伏熾磐はこの状況に対抗するために、423年に北魏に使者を送り、黄金を貢ぎ、盟を結びます。
とくに夏に対しての戦線をともに戦ってほしいというのをお願いしたようです。
この同盟により、河西エリアは、
北涼と夏の同盟 vs 西秦と北魏の同盟
の2勢力の戦いという形になります。
沮渠蒙遜、謀略を西秦にしかける
さて、423年も終わりに近づく頃、沮渠蒙遜は敵対する西秦に対して謀略をしかけます。
西秦に滅ぼされて西秦国内にいた南涼君主・禿髪傉檀の息子、禿髪虎臺に
●北涼国内の番禾、西安の二郡をあなたに割譲しますぞ。
●西秦討伐のための兵を貸すので、父(禿髪傉檀)仇を討って故地を回復されなされ。
と甘い言葉で誘いをかけ、西秦国内で反乱を起こさせようとします。
また、禿髪虎臺の妹は西秦君主・乞伏熾磐の妻になっていましたが、この謀略に手を貸し、乞伏熾磐を殺すのに手を貸そうとします。
故南涼の一族を使って、内から西秦を崩そうとする沮渠蒙遜でしたが、この謀略は、同じく乞伏熾磐の左夫人になっていた、禿髪虎臺の妹の妹が乞伏熾磐にバラし、禿髪虎臺と、禿髪虎臺の妹は乞伏熾磐に誅殺されてしまいます。
謀略自体は失敗しましたが、自分の手は汚さずに暗殺を企てる相変わらずの沮渠蒙遜の恐ろしい謀略です。
しかも、暗殺が成功しようがしまいが沮渠蒙遜自体は痛くもかゆくもないというのが沮渠蒙遜の謀略の凄みでもあります。
西秦の反撃、北涼の臨松郡を攻める
424年になると、前年の謀略の仕返しでもないでしょうが、今度は西秦が北涼国内に攻め込みます。
乞伏熾磐は太子の乞伏暮末に征北將軍・木弈干等を率いさせ、3万の兵で貂渠谷から押出し、北涼の白草嶺、臨松郡を攻めてこれを破り、2万余人の人民をさらって帰ります。
臨松郡は張掖の南にある郡ですので、おそらく西秦は姑臧を突破して攻めたのではなく、南涼の故地・湟河周辺から、祁連山脈を抜ける道を通り、張掖の南に出たのではないかと思われます。
このようにまだまだ北涼と西秦の争いは続きますが、425年に河西エリアではある英傑が生涯を終えます。
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『晋書』『資治通鑑』
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