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前秦が前燕の洛陽を攻撃したときに、同時進行で王猛は慕容垂親子を抹殺するための策を発動します。
疑いつつも、王猛の張り巡らされた罠にはまり、慕容垂の息子・慕容令は、道案内役を務めていた前秦軍から脱出、対峙していた前燕の慕容臧の陣に逃げ込みました。
慕容垂も、慕容令が前秦の軍中から逃げたことを聞き、間違いなく自分にも罪が及ぶと考え、長安から逃げ出しました。しかし、追手に追いつかれ捕まってしまいます。
王猛は、これで慕容垂を処断できると考えていたでしょうが、五胡十六国時代ナンバーワン英主である皇帝苻堅様は、「君の罪は問わないよ!」と、さわやかに慕容垂を許します。
一方、前燕に戻った慕容令は、慕容垂がそのままとくに何もなく前燕に仕えていることから、何か企みがあって前燕に戻って来たのではないかと疑われ、北の彼方へ飛ばされてしまいます。
そして、その地で手勢を集め、前燕に対して反乱を起こしますが、龍城奪取一歩手前で、弟・慕容麟の裏切りにより失敗、反乱起こしたタイミングで配下になっていた渉圭にも裏切られ命を落としました。
このような慕容垂親子関連のゴタゴタがありながらも、「人傑」苻堅様と王猛の前燕侵攻戦はここから本番を迎えます。
洛陽エリアを制圧した前秦の、次なる目標は并州(今の山西省)の壺関と晋陽(太原)でした。
前燕滅亡への戦いが始まります。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
学習漫画 中国の歴史 3 三国志と群雄の興亡 三国・魏晋南北朝時代
前秦軍出陣、并州に侵攻する
370年1月の洛陽攻略後、一度長安に帰還していた王猛ですが、370年3月に苻堅様からの命を受け、鎮南将軍・楊安をはじめとした十将と6万の兵を編成し、来たるべく前燕攻撃の準備を進めていきます。
そして、370年6月に長安を出陣し、長安近郊の灞上で苻堅様の激励の言葉を受け、前燕侵攻に向かいます。
まずの攻撃目標は并州(現在の山西省)でした。
王猛の侵攻路とその目的
さて、灞上で苻堅様が王猛を激励したときのセリフに、今回の戦争の攻撃内容について言及されています。
●まず、壺関(当時の并州の上党郡内の町)を攻めて、上党郡を平定せよ。
●そのまま長駆し、「はげしい雷のとき、耳をふさぐ間もない」ほどのスピードで鄴を獲得せよ。
●自分(苻堅)は、数万におよぶ軍をみずから率いて後続し、船や荷台に兵糧を満載にし、陸路と水路の両路を使用して進軍し、卿(王猛)が兵糧不足などの後顧の憂いがないようにしよう。
前秦軍の戦略としては、まず并州を攻略し、太行山脈を超えて華北平原に侵入し、前燕の首都・鄴を攻略するというものでした。
地図をみると、前秦はすでに洛陽エリアを獲得していますので、洛陽から黄河を渡り北上し、鄴を目指すというルートも考えられるのですが、そのルートは取りませんでした。
やはり、黄河という大河を渡るということ自体、かなりリスクをともなう行軍だったのではないかと思われます。
平陽エリアの重要性
そこで再度地図をみてみると、今回の前燕への侵攻以前から、前秦は平陽(今の臨汾)を中心としたエリアをすでに支配していているという事実がわかります。(西晋時の行政区画では、河東郡と平陽郡にあたります。)
ということは、前秦は黄河をわたったエリアにすでに橋頭堡を持っていたということになります。
このエリアには、蒲坂という昔からの有名な黄河の渡し場があり、その蒲坂の先の平陽まで支配エリアになっているということは、この地域での黄河渡河は容易にできるということです。
黄河渡河問題をなんなくクリアできるということが攻撃目標を并州に定めた理由の一つであったでしょう。
并州の地形と、太行八陘
この時代の并州を含む、今の山西省エリア(ちなみに平陽あたりは、西晋の行政区画では、首都圏の司州に入っています。)は、東から南にかけて太行山脈に囲まれ、西は黄河を境とし、黄河のすぐ東側に呂梁山脈が南北に走り、東西南北を山脈に囲まれた地形になっています。また山西省エリアの中にもいくつもの山脈が走り、その中に大小いくつもの盆地が存在しています。誤解を恐れず言うと、日本の信濃のように思えてきます。
そして、山西エリアの東と南に壁のように立ちはだかる太行山脈には、渓谷が走り、そこに太行山脈を抜けるための道が通されていました。軍が通るための道は8本あり、これを「太行八陘」と呼んでいました。
地図内の道ぽく書かれているのが太行八陘です。(地図内には5本しかありません。残りは地図外の北にあります。)
前秦軍も、并州攻略後はこの太行八陘を通り、華北平原に侵攻し鄴を攻撃しようと考えていたのでしょう。
ちなみに、太行八陘の一番南西にある陘は、軹関陘と呼ばれ、蒲坂などがある運城盆地から前燕支配地の野王などがある河內郡に進行し、そのまま平地を通って鄴まで進出できるルートなのですが、おそらくこの地域は黄河と太行山脈に南北を挟まれた狭いエリアで、前燕の守りも固かったのではないかと思われます。
漫画キングダムで描かれている、秦による趙の鄴攻めでは、この河內郡エリアを抜けて鄴まで攻め込んでいました。
壺関と晋陽を攻める
蒲坂から平陽エリアに入った前秦軍は、軍を2つに分け、前燕の壺関と晋陽をまずは攻めました。
次回は前秦軍による壺関・晋陽攻略戦を書きます。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
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