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369年12月に王猛率いる前秦軍は、前燕領内に侵攻しました。
前秦軍は洛陽盆地に侵入し、慕容築が守る洛陽城を包囲します。
前燕も慕容臧に10万の兵を与え援軍に向かわせますが、王猛は梁成と鄧羌に兵を与え、慕容臧を迎え撃ちます。
両軍は滎陽あたりで戦い、前秦軍が前燕軍を打ち破りました。
そして、援軍が来ないことを知った慕容築は洛陽の街とともに前秦軍に降伏しました。
こうして、洛陽は前秦のものになったのですが、この洛陽攻防戦の最中に、王猛は前秦にとっての驚異を取り除こうと策を巡らします。(この投稿の一つ前の投稿で洛陽攻防戦を書いています。この王猛による慕容垂親子への謀は、洛陽攻防戦後ではなく、洛陽攻防戦の最中の出来事です。)
王猛が「龍虎のごとし」と、前秦にとって最大級の驚異と考えていた慕容垂親子を処断しようとしました。
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慕容令
枋頭の戦いで、その将才を遺憾なく発揮し桓温率いる東晋軍を打ち破り、まさに救国の英雄となった慕容垂は、前燕の実権を握る慕容評から妬まれ、前秦への出奔を余儀なくされます。
慕容令は慕容垂の嫡子で、慕容垂が出奔するときに様々な献策をし、また慕容垂の危機を救い、前燕からの脱出時に大活躍します。
前秦に加入後も父親慕容垂と同様に苻堅様に気に入られかわいがられます。
知力も武力も優れた人物であったと思われ、もしこの慕容令がいたら、のちに慕容垂が建国した後燕も慕容垂死後に一気に転落することもなかったかもしれません。
そのような優秀な人物だったからこそ、父親の慕容垂とともに王猛から危険視されたのでしょう。
王猛、慕容令を郷導に任命する
さて、王猛は長安を出陣し、洛陽へ向かうとき、慕容令を郷導に任命し従軍を命じました。
郷導とは、いわゆる道案内のことで、元々前燕の人間である慕容令を、前燕国内での道案内役にしたということですね。
※晋書の苻堅載記では、慕容垂が郷導に命じられたとありますが、資治通鑑では慕容令が郷導になったとあり、このあとの話につながりますので、資治通鑑の記載に沿います。
また、王猛は長安から出征する直前に慕容垂を飲みに誘い、その席で出陣の餞別に何かくれと言います。
酔って気分のいい慕容垂は、それが王猛の恐るべき策略であることに気づかず、ええぞええぞと腰におびていた自分の刀を慕容垂に渡しました。
王猛の策略が慕容令を襲う
さて、王猛は洛陽に着いてから、慕容垂に親しいものを買収し、そいつに慕容垂からもらった刀をもたせ慕容垂からの秘密の使者として慕容令にささやきます。
「我ら親子は、秦に亡命をして死を免れたが、王猛が仇のように我らを憎んでおり、その告げ口は日毎に増しておる。秦王(苻堅)は外面上は我らを厚くもてなしてくれているが、その本心はわからぬ。
男子たるもの死から逃げようとして、ついに逃げられなかったとあれば、天下の笑いものになろう。東朝(前燕)はこの頃、昔の我らに対する行いを後悔しているらしく、主上(慕容暐)や太后もこれをもっともなことだと思っているらしいぞ。
儂は燕に帰ることを決めた。お前にも使いをやってこのことを伝える。儂はすでに動き始めているので、お前も速やかに行動にうつせ。」
王猛が青写真を描いた計略とは言え、慕容令もさすがです。かなり疑わしい内容だと気づいていたので終日悩みました。
しかし結局は、前燕への再出奔を選択しました。
王猛の罠であることは見抜いていたかもしれませんが、すでに周到に罠がめぐらされており、逃げざるを得ない状態であったのかもしれません。
猟をすると偽って逃げ、石門で前秦軍と対峙していた慕容臧の陣に逃げ込みました。
王猛、続けて慕容垂を罠に陥れる
慕容令が逃亡したと知らせを受けた王猛は我が計成れりと、すぐさま慕容令が叛いたことを公表します。
このことを伝え聞いた慕容垂は、慕容令が逃げたとあれば王猛のことだろうから罪を自分にもなすりつけるだろうと考え、すぐさま逃走をはじめます。
しかし王猛は慕容垂が逃走をはじめることについてすでに準備をしていたのでしょう。すぐさま追手がはなたれ、藍田というところで慕容垂は捕まってしまいました。
ちなみに藍田は長安の街の南東の盆地の端にあたる場所です。
慕容垂は東へ向かうのではなく、楚漢戦争で有名な武関を通り、宛がある南陽エリアに向かおうとしたのではないかと思われます。
とすると、慕容評が待ち構える前燕へ戻るのではなく東晋に降ろうとしていたのではないかと勘ぐってしまいました。
苻堅様、王猛の計略を爽やかに台無しにする
追手に捕まってしまった慕容垂ですが、そのあと苻堅様の前に引き出されます。
王猛は当然再出奔を計った慕容垂を苻堅が処刑し、自分の慕容垂誅殺計画を完成させようとしましたが、苻堅様は、
故郷の国を懐かしむのは当然のことで、慕容令が逃げたとしても卿の罪は問わないよ。
と、あっさりさわやかに慕容垂を罪を許し元の通り仕えさせてしまいます。
周到な準備をして慕容垂誅殺の計を練り9割方成功したと思っていた洛陽にいる王猛は、このことを聞きさすがに歯ぎしりしたことでしょう。
まあしょうがありません。それが苻堅様なのです。
慕容令のその後
さて、慕容垂と異なり、前燕へ帰還した慕容令ですが、慕容令が前燕に逃げ帰ったのに、慕容垂が前秦で罪も問われずそのままでいるので、前燕国内ではこの帰還は前秦の策略なのではないかと疑われ、慕容令は沙城というところに飛ばされます。
砂城は龍城の東北六百里にあるということですので、まさに慕容部が中原に入る前に本拠としていた遼東・遼西エリアの最果ての地です。
慕容令の乱
前秦の洛陽攻略から少しあとの話になりますが、罪を免れないと悟った慕容令はこの沙城で数千人の兵を集め、牙門将軍の孟媯を殺し、反乱を起こします。
そして砂城にいた渉圭という人物はすぐ降伏し慕容令はこいつを信じて側に置きました。
慕容令はこのあと威徳城を急襲し、守将の慕容倉を殺し城を占領します。そして、東西に激をとばすと、これに応じて兵が集まりました。
慕容令は集めた兵を率い、慕容亮が守る龍城に攻撃をしかけようとします。
この龍城攻撃が成功すると、もしかしたら遼東・遼西エリアは慕容令の手に落ちていたかもしれませんが、ここで弟・慕容麟が慕容亮に密告をし、慕容亮は龍城の守りを固くしたため、慕容令の龍城攻撃は失敗に終わります。
この慕容麟、以前にも慕容垂が出奔するときに裏切り、慕容垂を窮地に陥れた人物ですが、ここでまた裏切りを行います。ちなみにこのあと慕容垂が後燕を建国したときにはなぜか許され腹心になるのですが、慕容垂死後また裏切りを働きます。
さて、龍城攻撃に失敗した慕容令を、先に降伏し慕容令の側近になっていた渉圭が裏切り、襲いかかります。
慕容令は単騎で逃げますが、薛黎沢というところで捕まり殺されてしまいました。
渉圭は手柄とばかりに龍城の慕容亮に報告に上がりますが、慕容亮はこの渉圭を処刑し、慕容令の亡骸を丁重に葬ったといいます。慕容亮は慕容暐の弟になりますので、慕容令とは従兄弟になります。おそらく親しい仲だったのではなかったでしょうか。
このように王猛の策略により、慕容垂親子は窮地に陥り、慕容垂は事なきを得ましたが、慕容令は結果命を落としてしまいます。
生き残った慕容垂は、こののち後燕という国を起こしますが、跡を継ぐべき慕容令がいなくなったことで、後燕という国も短命で終わってしまったのではないかと思われます。しかしこれはすべて「if」です。
さて、このような慕容垂親子の災難があったりする中、とうとう前秦による前燕への全面攻撃がはじまります。
前燕の滅亡まであと少しです。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
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