前燕は、東晋に服属しつつ山東エリアで割拠していた段部の段龕を攻めます。
名将・慕容恪に率いられた前燕軍は段龕の本拠地・広固を攻め落とし、段龕を降伏させました。
これにより、356年、青州(山東エリア)の主要部分も前燕は手に入れました。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
太子の死亡
慕容儁の太子とさせていた、慕容曄が死亡し、その弟の慕容暐が357年2月皇太子として立てられました。
この太子死亡と慕容暐の立太子がのちの前燕の滅亡につながっていくのですが、その話はまた今度書きます。
塞北の丁零を討伐
357年5月、慕容儁は、塞北に勢力を保っていた、丁零・敇勒を、慕容垂、慕容虔、平熙に8万の兵を率いさせ討伐に向かわせます。
そして、丁零・敇勒を大破し、10万以上の首を取り、馬も13万頭捕獲し、牛や馬は数え切れないほど捕獲する大勝利を上げます。
慕容儁の時代になってから、少し影が薄くなっていた慕容垂の面目躍如の戦いでした。
その後、匈奴の賀頼頭が部族の3万5000人を率いて慕容儁に降伏して来ました。
鄴へ遷都する
357年11月、前燕は薊(今の北京)からかつての後趙・冉魏の首都であった鄴へ遷都をします。
そして、支配地に大赦を行い、鄴の宮殿を修築し、銅雀台を復活させます。
銅雀台は、魏の曹操が鄴に作り、呉の孫策、周瑜の奥さんである大喬・小喬を銅雀台に侍らせたいと言った建物です。
魏晋から五胡十六国時代にかけての中原の中心都市であった鄴への遷都は、前燕が中原を支配する国家として存在感を示す状況となったことを意味しました。
東晋軍を撃退し、河南エリアに侵攻
東晋の太山太守諸葛攸が東郡を攻撃してきます。慕容儁は慕容恪にこれを防がせ、東晋軍を撃破します。
また、東晋の謝萬が前燕に攻撃をしかけますが、謝萬は前燕軍に恐れをなし逃げ帰ります。
慕容恪は、兵を進め、河南に攻め入り、汝・潁・譙・沛の地を陥し、守宰を置いて帰還しました。
前秦の平州刺史・劉徳が5000戸と一緒に前燕に降伏してきます。
河間の李黑という人物が反乱を起こし、州郡を荒らし回りますが、慕容儁は長楽太守の傅顔にこれを討伐させました。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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