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洛陽を漢によって奪われたあとも各地にその勢力を残し、漢をはじめとした対抗勢力と戦っていた晋ですが、関中の長安で皇帝になっていた司馬鄴(愍帝)が、316年漢の劉曜によって捕らえられ長安が陥落し、晋(西晋)は滅亡ということになってしまいます。
※ただし、江南の司馬睿や、并州の劉琨など晋の勢力自体は残っている。
八王の乱後、304年の劉淵による漢の独立→洛陽陥落と、漢による攻撃を受け、皇帝が捕らえられながらも数年にわたり関中で粘っていた晋のメイン勢力もこれで滅亡し、五胡十六国時代はさらに混沌としていきます。
この時期、幽州の王浚を滅ぼしたあと、しばらく大きな動きのなかった石勒もそろそろ動き始めます。
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石勒、并州方面を攻め始める
316年11月、石勒は樂平太守の韓據を坫城で包囲します。
韓據は并州北部あたりで勢力を保っていた劉琨に援軍を要請します。
坫城は西晋の并州・楽平国にあります。并州はかなり漢が勢力をはっている地域ですが、石勒はしれっとこのエリアを自分のものにしようとしています。
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ということでしょうか。
援軍要請を受けた劉琨は、この時期、先日弑された拓跋猗盧の残党(けっこうな精鋭と思われる)を配下に加えたばかりでしたので、そいつらを使い石勒に反撃しようとします。
しかし、拓跋猗盧の残党として劉琨の元にやって来た箕澹や衞雄たちはこれに反対します。
「我ら(拓跋猗盧の残党)は晋の民になったと言っても、長い間塞外にいたものたちです。まだ明公(劉琨)の恩義を多く受けておらず、用いるのは難しいと思われます。
内に鮮卑(拓跋部)の食料を確保しながら、外に胡賊(石勒や劉聡)の牛羊をかすめ取るのは、関を閉じて固く守るより困難なことです。
しばらくは農業に務め、兵を休息させ、拓跋部が義を感じ服すのを待ち、その後用いれば、間違いなく手柄を立てることでしょう。」
しかし、劉琨はこの意見には従わず、拓跋猗盧の残党を派兵し、箕澹に命じ歩兵騎兵2万を率いさせ先鋒とし出陣させます。劉琨も自ら廣牧に駐屯し支援します。
ちなみに廣牧の地は、坫城の北西にあり、西晋の太原国、新興郡、楽平国の行政界が交わるあたりにあります。
石勒の迎撃
石勒、一旦退却作戦を却下、進言者を斬首
石勒は箕澹率いる軍が近づいてきたことを聞くと、迎撃の準備をします。
このとき、ある人物がしたり顔で石勒に進言します。
「箕澹の兵馬は精強なので、その先鋒とまともにぶつかるべきではありません。
兵を退きつつ、その鋭鋒を避けるのがよいでしょう。深い溝を堀り、高い塁壁を築けばその鋭い攻撃を抑えることができ、必ずや良い結果をもたらすでしょう。」
これを聞いた石勒は、
「箕澹の兵は多いが、遠方から行軍して来ており疲弊し、軍令もまともに行き渡っておらん。どうしてこの状態で精強なことがあろうか!
もう少しで敵が攻め込んでこようとしているというのに、今、兵を退くことなどできようか!
大軍は一度動かせは簡単には引き戻すことなどはできぬわ!
もし、箕澹が我らの退却に乗じて攻勢をかけてくれば、かえって我が軍は逃げまどいバラバラになり、何をする余裕もなくなってしまうわ。そのような状況で、溝を深くし、高い塁壁を築くことなどできるわけあるまい!
これは自ら滅亡の道を歩むようなものである。」
と言い、したり顔で献策して来た人物を斬り殺してしまいました。
上記の一旦退却の作戦、どこかで聞いたことがあったのですが、これより67年後に淝水という場所で苻堅というお方が、同じような作戦を実行に移して大敗北を喫した、のと同じ内容でした。(苻堅の作戦は、一旦退いたふりをしておびき寄せて敵が川を渡ったところを迎撃するという内容)
その苻堅というお方は、その後文字通り亡国の道を一直線に進むことになってしまいます。
上記作戦を献策して来た人物を斬り殺した石勒の判断は正しかったのです。
さて、石勒は孔萇を前鋒都督とし、三軍に「退くものは斬る!」と伝達し、戦いの覚悟を決めます。
石勒の伏兵先鋒
石勒は、地形が険しく敵を防ぐのに都合がよい場所に布陣し、疑兵を山上に置き、前方に伏兵を2箇所伏せさせます。そして軽騎兵を出し箕澹と戦わせ、偽りの退却をさせます。
箕澹は、ここぞとばかりに追い打ちをかけてきます。そしてそのまま石勒の伏兵の網の中に入り込んでしまいました。
石勒はここで前後から箕澹の軍を挟撃し大破することに成功します。
この勝利により、石勒は万を超える鎧や馬を戦利品としてぶんどります。
箕澹や衞雄たちはわずか千余騎を連れて代郡に逃げていきました。
劉琨からの援軍が敗れたことを聞いた坫城の樂平太守・韓據は城を棄てて逃げました。
この石勒勝利の報は、并州全土を震駭させます。
劉琨、并州から退去
12月になると、司空長史の李弘が「并州」全体を手土産に石勒に降伏してきます。このときの「并州」は西晋全盛時代の并州ではなく、劉琨が治める「并州」の「陽曲県」(太原の北の県)にあたるようです。
石勒の侵攻により、虎の子の「拓跋猗盧の残党」の壊滅、坫城の失陥、陽曲の失陥という結果になり、哀れ劉琨は并州エリアでは進退窮まり、撤収を余儀なくされます。
劉琨のことを聞いた段部の段匹磾は手紙を送り、「うちのところに来れば?」と誘い、劉琨はその誘いを受け、衆を引き連れ、飛狐口を通り太行山脈を超え段匹磾のいる薊まで逃げて行きました。
段匹磾は劉琨をひと目見てその立派な人柄に感服し、婚姻関係を結び、義兄弟の約束までしたそうです。
一方石勒は、攻略した陽曲、樂平の民を襄國に移住させ、現地には守宰を置いて引き上げたそうです。五胡十六国名物の徙民(しみん)ですね。
その後、石勒配下の孔萇は代郡に逃げた箕澹を攻撃しこれを殺害することに成功します。
孔萇たちはその後、幽州と冀州の間のあたりで跋扈していた賊の馬嚴、馮䐗を攻撃しましたが、なかなかこれを攻略することができませんでした。
当時、司州、冀州、幷州、兗州の流民は遼西に移住せざるを得ないことになっており、代わる代わるに親族を招き寄せようとしたりと、民は生計を安定させることができませんでした。
石勒は張賓に相談します。
張賓は答えます。
「馬嚴、馮䐗などはもとより公(石勒)の仇敵ではありません。そして遼西に流れた流民はみな帰還の気持ちがあります。今(馬嚴、馮䐗討伐の)軍を返し凱旋させ、適任者を地方長官に任命し流民を招きこれを慰撫すれば、幽州・冀州間の騒乱は日ならずして静まり、遼西の流民は相次いで帰還して来るでしょう。」
この献策を聞いた石勒はすぐに孔萇たちを帰還させ、武遂令の李回を易北督護に任命し、高陽太守も兼任させます。
馬嚴の兵たちはもとより李回の威徳に服していたので、多くが馬嚴から離反し李回の元に帰順しました。馬嚴はこれはまずいと逃げ出しその途中で水に溺れ死んでしまいました。
一方、馮䐗は衆を率いて降伏して来ました。
李回は易京に移り、そこに帰順しようとする流民が道に相継ぐという状況になりました。
これにより、冀州・幽州間の問題も解決され、流民も多く石勒の元にやって来るという状況になり、石勒の勢力のアップにつながりました。
またしても張賓の献策大当たりです。
石勒をこの結果に喜び、李回を弋陽子に封じ、張賓には邑千戸を加増し、爵位を前将軍に進めようとしましたが、張賓はこれを辞退したと言います。
このように、石勒は316年が終わるまでに、本拠地襄国の北西、北東に勢力を広げていきます。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)
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