石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第三部「石勒の河北争奪戦」① 312年 石勒の黄河渡河と河北経略の開始

石勒

こんにちは。

312年に自分の進むべき道を見つけた石勒は、「右侯」張賓の示した戦略に沿って動き始めます。

寿春で対峙していた晋軍の追撃も、大きなダメージを受けることなく振り切り、黄河の北を目指して進軍をはじめます。

ここから第三部「石勒の河北争奪戦」がはじまります。

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312年の河北の状況

さて、石勒が黄河の北を目指し始めた頃の河北エリアの状況はどうだったのでしょうか?

劉琨と王浚の対立

この時期、晋陽には劉琨幽州には王浚という、晋の臣たちが勢力を保っていました。晋の臣と言っても、晋朝は首都が落とされ、皇帝もさらわれていましたので、ほぼ軍閥のような状態でそれぞれの赴任(?)エリアで割拠しているような状況でした。

しかも、この二人はかなり対立しています。王浚が劉琨を攻めたり、攻められた劉琨がマブダチの鮮卑拓跋部拓跋猗盧(北魏・道武帝の4世代上、ひいひい爺さん世代)から援軍を送ってもらってやり返すなどやりあいます。

さらに劉琨は并州の晋陽を本拠にしていますので、平陽を本拠とする漢からも攻められたりもしています。

そのは君主・劉聡がご乱心ぎみで、皇后を大量に増やしたり、諌めた家臣を大量に殺したり、それを反省したり、精神不安定的な状態になっています。

晋の皇帝

そして、晋の今上皇帝・司馬熾(懐帝)は、洛陽陥落時につれさらわれ平陽で飼われていました。ただしこの312年の頃は劉聡からも屈辱的であれども気に入られ、小劉貴人という女性を下賜されたりしていました。

晋の長安奪回

その頃、関中では、晋の復興を目指し安定より長安奪還に向かった賈疋が、漢軍と激闘を繰り広げていました。

賈疋は長安を数ヶ月に渡り包囲し、長安を守る劉曜は連戦連敗を喫し、息絶え絶えになります。

さすがの「劉家の千里駒」も孤軍の状況では厳しく、長安の士女8万人をさらって漢の首都・平陽に退却していきました。

これにより長安は晋が奪回、関中に来ていた皇族・司馬鄴も長安に入りました。

石勒の黄河渡河作戦

漢、晋の勢力が入り交じって対立していた華北ですが、石勒は駐屯地の葛陂から、張賓の戦略とおり、黄河北エリアの獲得を目指して北へ進軍します。

石勒軍、また飢える

ただ、石勒が通るところ、すべての街が門を閉ざし、街の外の畑の作物なども刈り取られ、略奪しようにも獲るものがないという状態でした。しょせんは群盗、嫌われたものです。

これにより石勒の軍は食料が足りなくなり、士卒相い食む、という状態になり、フラフラで黄河の南に位置する兗州の東燕に到着します。

ここまでくれば黄河はすぐそこです。

枋頭

そこへ、黄河の対岸にある枋頭を晋将・向冰が数千の兵で守っているという情報が入ってきます。

枋頭は、黄河に流れ出る淇水という川と、白溝という黄河に沿ったように流れる水路が重なる場所で、この当時このエリアの水運の重要地でした。五胡十六国時代のこのあとも何度か名前が出てくる大変重要な地です。

石勒は黄河を渡ろうとしますが、向冰が邪魔をしてくるのを恐れなかなか動けないでいました。

張賓の作戦

そこへ張賓が献策します。

「聞けば向冰の船はことごとく通水路にあり、まだ黄河に登って来れてないといいます。ここは軽兵で間道を通りまず向冰の船を襲って奪い取ってしまいましょう。その後大軍で黄河を渡りましょう。我が軍の主力が黄河を無事渡りさえすれば、向冰なぞ必ず捕らえることができるでしょう。」

向冰の船の情報をいち早く手に入れている張賓、さすがです。これぞ軍師という策です。

黄河渡河作戦開始

7月に入り石勒張賓の策を実行に移します。

まず支雄、孔萇に命じて、筏の船を作らせ密かに文石津より黄河を渡らせます。

そして、向冰の船を獲得、その後石勒自らが本隊の兵を率いて棘津より黄河を渡り、向冰軍を攻撃し大破します。

ちなみに文石津、棘津はどちらも兗州から枋頭方面へ黄河を渡るとき使用する黄河の主要な渡し場で、文石津のほうがやや下流にあったようです。

この渡河作戦および攻撃で、石勒は向冰軍の兵糧を奪い取り、石勒軍は勢いを取り戻します。

石勒、鄴を狙い、その後襄国を取ることを決める

そして長駆、河北エリアの中心都市・へ向かいます。

では劉琨が派遣した劉琨の兄の子・劉演三台という鄴城内の要害拠点を守り石勒に備えていました。

鄴は以前、漢が陥落させたと思っていましたが、石勒が北帰する時点では晋勢力の劉琨が再び手に入れたみたいです。

石勒軍の諸将は、鄴城の三台を早く攻めましょうと言いましたが、ここで張賓が献策します。

「劉演は弱々モブキャラですが、その率いる兵は数千はおり、三台の守りは強固です。これを攻めても簡単には落とせないでしょう。そして、我らがここを離れてもやつらは勝手に自滅してくれるでしょう。

王彭祖(王浚)と劉越石(劉琨)は、公(石勒)の大敵であります。先にこの2勢力をたたくのがよいでしょう。そうすれば劉演なぞ気にすることなどなくなります。

今、天下は乱れ人々は飢えております。明公(石勒)は大兵を擁すると言っても、その我らの勢力は現状各地を放浪している状態です。人は志がなければ、万全を期した状態で四方を制覇することなどできませんん。よい場所を選びこれを本拠地に定め、広く食料を集め、西に平陽(石勒が一応所属する漢の本拠地)から命を受け、幽州(王俊の支配地)、并州(劉琨の支配地)を経略していくこと、これこそ『覇王の業』であります。

邯鄲や襄国は地勢が優れており、要害の地でもあります。この2都市のどちらかを選び我らの都とするのです。」

石勒はキメ台詞を吐きます。

「右侯(張賓)の計、是なり!!」

そして、襄国を本拠とすることを決め、さらに北へ進軍をはじめました。

黄河の南で、パックパッカー的放浪自分探しの旅をしてきた石勒ですが、黄河を渡り、河北エリアに入りさらに本拠地を定めようとするまで戦略的動きができるようになりました。

これも張賓の数々の献策により、勢力の方向性が定まってきたおかげです。

そしてこのあと河北に勢力を築いていくとともに、ついに河北の2大晋朝勢力(ほぼ軍閥)の王浚と劉琨との対決がはじまります。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』


五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)


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