石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第一部「戦乱の世に降り立つ」② 石勒デビュー時の中華の状況

石勒

こんにちは。

石勒は、羯族の部族長の家に生まれましたが、青年時代に住んでいた并州(現在の山西省)が大飢饉に見舞われ、部族は分解して散り散りになってしまいます。

そのあと、石勒は晋の王族の一人司馬騰の奴隷狩りにあい、奴隷身分に落ちてしまいます。

しかし、その一連の不幸も、郭敬さん一族の助けなどで生き延び、茌平の師懽に売られたあと、只者ではないオーラのおかげで奴隷身分から解放されます。

そのあと、牧師の汲桑と「馬のスペシャリスト」石勒は、馬について意気投合したのか「友」になり、一緒に傭兵や群盗をやり始めます。

アングラ的な活動をしていたところ、304年に匈奴の劉淵が漢を建国し晋から自立します。

その後、華北は動乱の世になりますが、そのような中、関東(大雑把に函谷関の東のエリア、ここでは華北の太行山脈~洛陽の南北のラインの東のエリアに当たりそう)で「公師籓の乱」が勃発します。

この「公師籓の乱」が石勒の歴史上の流れに降り立つデビュー戦となります。

しかし、この時代のことがよくわからないと、なぜ石勒デビューの状況が生まれたのかが分かりづらいと思いますので、この時代に至る歴史の流れと、304年~305年頃の時代について簡単に書いておきます。

 

五胡十六国時代のおおまかな流れはこちら

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五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら

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五胡十六国に至るまでの歴史の流れ

石勒がデビューを飾る時期は、ちょうど五胡十六国時代がはじまった頃にあたります。

そしてこの時期は、三国志の物語でも人気のある時期と思われる(個人的な感想)、曹操が台頭し、官渡の戦い(200年)で袁紹を破り、華北を制覇していき、赤壁の戦い(208年)へ至る時期。さらに劉備も赤壁の戦いから巴蜀侵攻に至る時期(214年に劉備は成都に入り益州牧になる)から見て、ほぼ百年後にあたります。

上記の時期は、後漢の時代ではありますが、後漢は黄巾の乱(184年)でボロボロになり、そのあとの群雄割拠の状態から、曹操、孫権、劉備の三勢力にまとまっていく時期であります。

そして、220年に後漢の献帝が魏の曹丕に禅譲し、後漢は滅亡、正式に魏、呉、蜀の「三国時代」に入っていきます。

この三国時代の開始は、五胡十六国時代も含む、魏晋南北朝時代のはじまりでもあります。(黄巾の乱が始まる184年を三国時代と魏晋南北朝時代の始まりとする説もあり)

魏晋南北朝時代は、589年に隋が天下統一するまで370年ほど続きます。

この時代は、西晋の短い統一の時期を除けば、ひたすら分裂の時期が続いていた時期です。

黄巾の乱からの群雄割拠を数えれば、約400年にわたり中国が分裂していた時期になり、漫画キングダムが描く「春秋戦国時代」にも匹敵する分裂、戦乱の時代になります。

三国時代以降の簡単な流れ

後漢が滅亡したあとの三国時代以降の歴史の流れは以下のようになります。

220年 曹丕皇帝になり、魏朝成立

221年 劉備、皇帝になり、蜀漢成立

227年 諸葛亮、出師の表を出す

229年 孫権、皇帝になる

234年 諸葛亮、五丈原に死す

238年 司馬懿、遼東の公孫氏を滅ぼす

249年 司馬懿クーデターを起こし、魏の実権を握る

252年 司馬懿死去。孫権死去。

255年 司馬師死去。司馬昭が跡を継ぐ

263年 蜀漢、魏に滅ばされる。

264年 司馬昭、晋王となる。

265年 司馬昭死去。司馬炎、魏より受禅し、晋朝成立。

280年 晋、呉を滅ぼし、天下統一。

290年 司馬炎死去

291年 八王の乱はじまる

304年 八王の乱による戦乱が激しくなる中、匈奴の劉淵が漢王を称し自立。
      益州では李雄が成都王を称し自立。

と、このように、三国時代から晋の統一を得て、晋が武帝司馬炎の死去のあと八王の乱によって乱れている中、石勒が登場して来るという流れになります。

そして後漢の時代は、匈奴や石勒の羯族などが山西エリアなどの中国の「内地」に定住をし始める時期でもあります。

中国史稿地図集上冊をもとに作成

石勒のデビューに絡んで来る「八王の乱」と「永嘉の乱」について

石勒がデビューする、「公師籓の乱」が始まった305年は、「八王の乱」の激しさがピークを迎えている時期で、さらに劉淵が建国した漢(のちに前趙と改名)が西晋を滅ぼす「永嘉の乱」(永嘉の乱の開始年は諸説あり)が始まった時期と重なります。

その八王の乱の石勒がデビューする時期までの流れを簡単に書いておきます。まじややこしいのでできるだけ簡単に書きます。

八王一覧

馬野郎(司馬)だらけで分かりづらいので、八王総ナンバー制にしておきます。
だいたい登場&主役になる順に並んでいます。

①汝南王・亮【りょう】(司馬懿の子ども、司馬師・司馬昭の弟)
②楚王・瑋【い】(恵帝の弟)

③趙王・倫【りん】(司馬懿の子ども、司馬師・司馬昭の弟)
④斉王・冏【けい】(司馬昭の孫、恵帝の従兄弟)
⑤長沙王・乂【がい】(恵帝の弟)
⑥成都王・穎【えい】(恵帝の弟)

⑦河間王・顒【ぐう】(司馬懿の甥の息子)
⑧東海王・越【えつ】(司馬懿の弟の孫)

八王の乱を分けて考えてみる

八王の乱は、八人の王が最初から最後まで入り乱れて戦いあったようなイメージがありますが、実際は、いくつかの時期に分けて考えることができます。

第一期 宮廷闘争

第二期 平和な時代

第三期 宮廷闘争

第四期 王の軍隊同士の戦い

大まかに上記のような流れで進みます。

八王の乱の期間中の3分の2は、宮廷闘争や一旦平和な時代あったりして、軍同士が戦場で戦いあうのは、最後の3分の1だったりします。

劉淵が漢を建国し永嘉の乱が始まるのや、石勒が「公師籓の乱」でデビューするのも、この最後の3分の1の間になります。

石勒デビューまでの「八王の乱」の流れ

第一期 宮廷闘争(賈南風が権力を奪取する):291年3月~291年6月

賈南風 vs 楊駿
賈南風・②楚王・瑋 vs ①汝南王・亮
賈南風 vs ②楚王・瑋

八王の乱の起こった原因は、かなりの部分が賈南風(賈皇后:恵帝の皇后)のせいであります。

晋が天下統一をしてあと290年に武帝(司馬炎)が死去します。そのあと、当時から暗愚で有名であった司馬衷が即位します(恵帝)。

武帝は武帝の皇后の楊氏の父親であった楊駿と、長老の ①汝南王・亮に跡を託しますが、楊駿が外戚として実権を握り国政をほしいままにします。

恵帝の皇后である賈南風はこれがおもしろくなく、楊駿をはじめとする楊氏一族の誅殺を狙います。

賈南風は、頭が悪く凶暴な②楚王・瑋を味方に引き入れ、恵帝の詔をでっちあげ、楊氏一族を族滅させることに成功します。

楊駿をうまく除くことに成功した賈南風ですが、政治は、①汝南王・亮衛瓘が行うことになりました。

①汝南王・亮と衛瓘は賈南風が力を持つのを抑えようとしたので、賈南風はこの二人も除こうと企みます。

そして、前述の頭が悪い②楚王・瑋をそそのかし、①汝南王・亮と衛瓘を殺害させます。

このあとすぐ賈南風は、①汝南王・亮と衛瓘を殺害するという政変の罪を②楚王・瑋になすりつけ、②楚王・瑋も処刑します。

これにより、邪魔者はいなくなり、賈南風をはじめとする賈氏が権力を握ります。

第二期 平和な時代(張華・裴頠・賈模らの政治):291年6月~299年12月

八王の乱の最中に「平和な時代」があるというのは、おかしな感じですが、八王の乱でくくられる時期の中には、うまく政治が行われた時期がありました。

賈南風は権力奪取に執着し、若い男を引き入れ淫虐な行いをするなどするとんでもないやつでしたが、政治そのものにはたいして興味はなく、家臣に丸投げしました。そして丸投げされた家臣たち、張華・裴頠・賈模たちは優秀な賢臣たちでありましたので、この時代、世の中は大いに治まったといいます。

ちょっと意外である「平和な時期」なのですが、「八王の乱」の間に起こった出来事を無理やり一つの「乱」としてまとめるのが逆に無理があるのかもしれません。

第三期 宮廷闘争(賈南風失脚&趙王・倫の簒奪):299年12月~301年2月

8年くらい晋の天下は治まっていたのですが、299年12月ころになると、賈南風は時の皇太子が気に食わなくなってきます。

皇太子・司馬遹は、賈南風の実子ではなく、武帝(司馬炎)もこいつがいればアホの司馬衷(恵帝)が自分の跡を継いでも、そのあと晋朝は盛り返すだろうと思ったような才がある(と思われていた)人物だったようです。

賈南風的には、そんな優秀なやつが皇太子やってると自分にとっては都合が悪くなるので、廃位し殺害しようと企みます。

この企みは廃位までは成功しますが、張華や裴頠たちの反対もあり、司馬遹殺害まではいけませんでした。

そうこうしているうちに、司馬遹復位を求める勢力が出てきて彼らは③趙王・倫に協力を頼みます。

③趙王・倫もその気になりますが、腹心の孫秀が悪巧みをし、この話を賈南風にバラします。

賈南風に司馬遹を殺害させ、その賈南風の罪を大義名分にして、賈南風を廃し③趙王・倫が実権を握るという策略です。

賈南風は見事にひっかかり、司馬遹を殺害させます。

300年4月、③趙王・倫「さあ、行こうか!」とばかりに政変を決行し、④斉王・冏【けい】たちも一緒に、宮中に突入します。賈南風は捕らえられ洛陽城内の金墉城に監禁されたのちに自害させられ、賈氏一族もことごとく処刑されます。

これで賈南風の時代は終わりをつげます。

このとき、張華や裴頠たちも一緒に処刑されてしまい、賢臣を失った晋はこのあと滅亡へ向かいます。

③趙王・倫は晋の実権を手に入れ、その後帝位簒奪へ舵を切ります。

そして、301年1月、③趙王・倫は帝位簒奪を実行します。

これが、晋全土を巻き込む乱の開始になります。

ここからが八王の乱の本番とも言えます。

第四期 王の軍隊同士の戦い:301年3月~

三王起義

301年3月、③趙王・倫の帝位簒奪を聞いた、④斉王・冏【けい】は、⑥成都王・穎【えい】、⑦河間王・顒【ぐう】とともに、それぞれみずからが擁する兵を率い③趙王・倫討伐の挙兵をします。(上記三王とともに、⑤長沙王・乂【がい】も呼応している)

三王の挙兵を知った③趙王・倫も軍を発し防衛戦を開始し、はじめは三王たちに勝利するのですが、その後じわじわ負けてきて、ついに⑥成都王・穎【えい】が黄河を渡り洛陽へ近づいて来ます。

301年4月、この三王の進軍を聞いた洛陽の群臣たちは、「趙王、負けそうじゃん」と思い、③趙王・倫の殺害をもくろみます。

結果、③趙王・倫は捕らえられ自害させられます。

④斉王・冏【けい】が実権を握る→速攻で殺害される

③趙王・倫を破ることに成功した④斉王・冏【けい】が実権を握りますが、こいつもすぐ朝政を壟断し、贅沢三昧な生活を開始し、みんなを失望させます。

④斉王・冏【けい】が権力握るのを、にがにがしく思っていた長安在住の⑦河間王・顒【ぐう】は、302年12月④斉王・冏【けい】討伐の兵を挙げます。

⑦河間王・顒【ぐう】は洛陽にいた⑤長沙王・乂【がい】に命じて④斉王・冏【けい】を攻めさせます。

在住の⑥成都王・穎【えい】もこれに呼応します。

この戦いは、洛陽城内での戦闘になり、⑤長沙王・乂【がい】は兵を率いて宮中に攻め入り、恵帝を自分の手に収め、④斉王・冏【けい】がいる大司馬府を攻めます。この戦闘は洛陽城内を焼き、三日間続きますが、とうとう④斉王・冏【けい】は捕らえられ処刑されます。

⑤長沙王・乂【がい】が実権を握る→速攻で殺害される

今度は⑤長沙王・乂【がい】が実権を握ります。⑤長沙王・乂【がい】は恵帝を蔑ろにはせず、鄴の⑥成都王・穎【えい】とも相談しながら政治を行ったので、群臣や民衆たちからも人気があったそうです。他の八王とは少し色合いが違うようですが、残念ながら他の王に妬まれます。

⑤長沙王・乂【がい】が権力を握るのをおもしろく思わなかった、⑦河間王・顒【ぐう】⑥成都王・穎【えい】は、303年8月、⑤長沙王・乂【がい】討伐の軍を挙げます。

これも軍対軍の「戦争」という展開になります。

⑤長沙王・乂【がい】は、⑥成都王・穎【えい】の軍20万、⑦河間王・顒【ぐう】の軍7万を立て続けに撃破しますが、洛陽を包囲され兵糧攻めをしかけられます。

野戦では連勝していた⑤長沙王・乂【がい】ですが、食料不足気味の洛陽にはこの兵糧攻めはダメージが大きく、さらに水の手もたたれます。

この様子をみていた⑧東海王・越【えつ】(洛陽城内にいた)は、「長沙王負けそうじゃん」と思い、⑤長沙王・乂【がい】を捕らえて洛陽の門を開いてしまいます。

⑤長沙王・乂【がい】はあわれ、焼き殺されてしまいました。

⑥成都王・穎【えい】vs⑧東海王・越【えつ】

このあと実権を握ったのは、⑥成都王・穎【えい】ですが、彼は洛陽に居座らず、自分の根拠地・に戻り、そこから統治しようとします。

⑥成都王・穎【えい】も、さっそく悪政を布き民衆を失望させます。

この、⑥成都王・穎【えい】の悪政に腹を立てた⑧東海王・越【えつ】は304年7月恵帝に親征させ⑥成都王・穎【えい】討伐の軍を挙げ、鄴を攻めます。

その結果は、なんと⑥成都王・穎【えい】の軍に破れ、恵帝は⑥成都王・穎【えい】の手に落ち、⑧東海王・越【えつ】は自分の根拠地の東海に逃げ帰るという大失態を演じます。

⑥成都王・穎【えい】、失脚。劉淵の自立(永嘉の乱はじまる)

⑥成都王・穎【えい】は、恵帝を手に入れウハウハと思いきや、今度は北から幽州刺史の王浚東嬴公・司馬騰とともに304年8月に鄴へ攻めてきます。このときの軍は鮮卑の段部烏桓の兵を含む軍隊だったようです。

攻められた⑥成都王・穎【えい】は、焦ります。このとき、配下にいた匈奴の劉淵「匈奴の兵を集めて来ますわ」という申し出をはじめはしぶりましたが、劉淵に説得され結局許可します。

劉淵は匈奴の部族の元に戻り、ここで部族民たちに推され304年8月晋から自立してしまいます。

これが漢(前趙)の建国で、永嘉の乱の幕開けでもあります。(永嘉の乱の開始年は諸説あり)

このあと、劉淵の漢は10年以上にわたり晋との戦いを繰り広げますが、その話は石勒のストーリーとも同時に進行していきますので、このあと順次書いていきます。

⑥成都王・穎【えい】は結局耐えきれず、鄴を捨て恵帝を連れて洛陽に逃げます。

しかし、洛陽は⑦河間王・顒【ぐう】の配下・張方が権力を握っており、逃げ帰った⑥成都王・穎【えい】は失脚してしまいます。

そのあと、張方は恵帝と⑥成都王・穎【えい】を連れて⑦河間王・顒【ぐう】がいる長安への遷都を強行します。

⑦河間王・顒【ぐう】vs⑧東海王・越【えつ】

恵帝が長安に連れ去られたことを聞いた⑧東海王・越【えつ】は、305年7月、恵帝の奪還を掲げ、徐州で挙兵します。

はっきり言って「どの口が恵帝奪還を言っているんだ」と思うのですが、とりあえず⑧東海王・越【えつ】⑦河間王・顒【ぐう】と戦おうと西へ向かいます。

八王の乱の中、「公師藩の乱」が始まる

そして、同じ時期、華北では、⑥成都王・穎【えい】の故将である公師藩が305年7月、将軍を自称し、趙や魏の地で数万の兵を集め挙兵しました。

この「公師藩の乱」が石勒のデビュー戦になります。八王の乱の後期に起こった⑥成都王・穎【えい】の洛陽への逃走が、石勒のデビューにつながってきます。また、⑥成都王・穎【えい】の下にいた劉淵が304年に自立して漢を建国することも石勒の人生に大きな影響を与えます。

劉淵の漢建国は実質、五胡十六国時代の開始にもなります。(同時期に涼州では張軌、巴蜀では李雄が自立的な動きをしている。張軌はあくまで晋の刺史の立場を取っている)

八王の乱が終焉に近づくころ、その混乱の中で石勒は時代の流れの中に登場してきます。

八王の乱の今後の展開

このあと、八王の乱はもう少し続き、永嘉の乱も進行していきます。このあたりは石勒の今後の動きとも絡んできますので、このシリーズの中でも書いていきます。

一応、八王の乱の今後を簡単に書いときます。

⑧東海王・越【えつ】はもたもたしながらも洛陽に入り、長安の⑦河間王・顒【ぐう】を攻めます。⑦河間王・顒【ぐう】の軍は敗北し、関中は⑧東海王・越【えつ】の軍に支配され、⑦河間王・顒【ぐう】は長安を保つのみとなってしまいます。

⑦河間王・顒【ぐう】が敗北したあと、そのもとにいた⑥成都王・穎【えい】は逃亡しますが、結局頓丘郡太守の馮嵩に捕らえられてしまい鄴に送られ、306年9月、長史・劉輿によって殺害されてしまいました。

⑧東海王・越【えつ】はこれ以上の混乱を避けるため、⑦河間王・顒【ぐう】の罪を許そうとし、洛陽へ招聘しました。⑦河間王・顒【ぐう】はこれを受けて洛陽に向かいましたが、司馬越の弟の南陽王・司馬模がこれを許さず、その配下の者が、306年12月、⑦河間王・顒【ぐう】を殺害してしまいました。

これにより、⑧東海王・越【えつ】が最後に残り、ここに八王の乱は終わります。

八王の乱の後

と、思っていたら307年1月に恵帝が餅をのどにつまらせ死去してしまい、懐帝が即位します。

懐帝は⑧東海王・越【えつ】が権力を握っているのを気に食わず、また権力争いが始まります。司馬氏、どうしようもないやつらです。

この対立は311年の司馬越死去まで続きますが、晋朝上層部が内輪もめをしている間、漢との戦いも続いていきます。

次回は、話を本筋に戻し、石勒デビュー以降の話に戻ります。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』


五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)


魏晋南北朝 (講談社学術文庫)


 

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